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日本人は映画オッペンハイマーの何に苛ついているのか?

クリストファー・ノーラン監督のオッペンハイマーという映画について、以前感想を書かせていただいたんですが、その後も、なんだかモヤ付きがおさまらないというか、同映画を素直に称賛できない苛立ちみたいなものがずっとつきまとっていました。

※前回論評↓。

なんでだろー?って思っていたんですけど、ふと答えに思い至ったので、日本人がなぜあのオッペンハイマーという映画について、モヤ付き、苛立っているのかについて、解説したいと思います。

そんなに難しい話ではないです。


技法的に優れた映画オッペンハイマーがやっていること

以前の投稿にも描いたとおり、あの映画は極めて論理的かつ構造的に精緻につくられた作品です。また細部のディティールも素晴らしく、演者のクオリティも高い。見事なまでに、オッペンハイマーという人物にスポットを当てた、エンターテインメント伝記映画になっていた訳ですけれども、日本人的には、だからこそ苛立つ物があったのだと思うのです。

ノーランがやったのは、単純なドキュメンタリー的、史実の再現ではなく、オッペンハイマーという人物を使った映像エンタメなんですよね。

劇中には、オッペンハイマーの現在過去未来のドラマチックなシーン、回想、現実世界に突然入り込んでくる濡れ場イメージ、原爆の暗喩となる称賛シーン、原爆テスト時のUSA!なノリ。登場する役者のケレン味ある演技。それらが高いクオリティで同居していました。


映画ですから、それらすべてが映画を盛り上げるためのエンタメ的演出、編集、誇張が少なからずなされたものになっています。

それが、劇中のアメリカ人の当時の日本人への扱い以上に、センシティブな題材を扱ったときに、日本人の鼻につくのです。

あの悲劇につながる史実の事柄を再現した映画が、極めて技巧的に凝ったエンタメ作品として目の前にあるぞ、と。

それがどうしても気になってしまうんです。

アメリカ人にとっての最先端の合理的エンタメ映画と演出技法

振り返ってみると、あのオッペンハイマーという映画は、倫理や思想の啓蒙を目的としているというよりも、どちらかとうと作品の技法を優先した、歴史的発明とその後の顛末にスリルを感じさせる映画になっていますよね。

というかクリストファー・ノーランという監督自体、思想や倫理を説くよりも、きわめて技法に優れた、ハリウッド最先端にいる数字のとれる合理的エンタメ監督です。

そんな彼がオッペンハイマーを通して、広島長崎への原爆投下という史実を、アメリカ人的合理的エンタメ映画に加工してリリースしている、と。

それがオッペンハイマーという映画なんですよね。

オッペンハイマーという題材を使って、ハリウッドエンタメをしたならば、どうするのが面白いのか? 突き詰めた結果の答えがアレである、と。

そこに込められたものは、ドラマチックにみせるためのテクニックの宝庫でした。

しかも面白いことに、そのドラマチックにみせるための合理主義的演出が、原爆投下を決定した劇中アメリカ人の合理的な判断をする姿にも重なって見えてしまうという。

そして、思うのです「センシティブな題材をスタイリッシュにしちゃってさあ、──ていうか、あなたたちっていつもそうですよね」と。

これが、苛立ちの正体だよなあ、というのが、映画を見終わって数週間たった僕の導き出した答えでした。

日本人にとってのエンタメ、アメリカ人にとってのエンタメ

で、原爆投下です。

日本人にとって、原爆投下というのは、当たり前なんですけど、まだまだ合理的エンタメにできない事件なんですよね。

これが、関ケ原の合戦だとか、徳川家康だとかになってくるとNHKでも合理的クソエンタメにできるんですけど、そういうものではないと。

ただアメリカの監督はそれをやっちゃうんです。

今回はたまたまヒロシマ・ナガサキ関連の話になっていますが、実はハリウッドというのは、アメリカ人にとっての歴史的事件もけっこう安易に合理的エンタメにしてしまいますよね。

第二次世界大戦だけでなく、ベトナム戦争もそうだし、JFKとか、湾岸戦争、あるいはいくつかの政治的事件、そういったものも、けっこう安易にスピード感あるエンタメに作り変えている。

まあまあ日本人も直近史実モノをやってるっちゃやってるんですけど、日本の場合は何が違うかというと、そこには一定の倫理的・思想的配慮がなされる。あるいはもう一歩踏み込む。それが日本人が直近の直視しづらい歴史的事件を扱う際の、矜持だと思うのです。

※日本人にとって極めて日本人的に納得感のある倫理的配慮がなされた日本の作品↑大好きです

ところがアメリカの場合は、事件はアメリカ的美学のために単純化されるんです。わかりやすーいお涙頂戴USA的美学に塗りつぶす。一般大衆向けには、答えの出ない難解な思考の袋小路に落とし込むような作品はつくらない。それがアメリカ的感動の合理性なんだろうな、と。

そのあたりが、倫理と思想と、もう一歩踏み込んだ何かを探し求めている、日本人視聴者とのズレを生み、さらなるモヤモヤを加速させることにもなったのだろうな、などと。





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