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【老子】知足の智恵~「欲望は身体に悪い」


「無為自然」と「小国寡民」

道家は、儒家と並んで中国の精神文化の支柱となっている思想である。
元祖の老子は、謎に包まれていて、実在したのかどうかもわからない。

老子の思想の中核は「道」である。中国語音で「タオ」とも呼ばれる。
老子の「道」は、儒家の説く人倫における「道」とはまったく異なる。

老子の説く「道」は、天地万物の根源を指す。万物を生成消滅させながら、自身は生滅を超越した唯一普遍的な存在、宇宙自然のあらゆる現象の根底に潜んでいる原理のことを言う。

老子は、人間は「道」に随順して生きるべしと説く。そのためには、人為の文明によって失われた自然な生き方に立ち返らなければならない。そこで、「無為自然」にして本来の純朴な生き方をせよと説く。

そして、これを政治論に応用し、為政者は制度や法令によらず、余計な干渉をせずに「無為」にして治めれば、民が支配者の存在を意識することなく、天下は自ずと円満に治めることができると説く。

こうした思想から構想された理想の社会が「小国寡民」である。狭い国土に少ない人口。民は「無知無欲」で、素朴な原始的な生活に満足し、隣国との往来もないという農村共同体である。

「小国寡民」の眼目は、文明の否定にある。儒家が重んじる仁義礼智、学問教育、ひいては文明そのものを徹底的に否定している。

欲望は身体に悪い

老子の思想の重要な鍵の一つが「無欲」もしくは「寡欲」である。
『老子』第四十四章に、次のような言葉がある。

足るを知ればはずかしめられず、
止まるを知ればあやうからず。


満足することを知れば恥辱を受けることはなく、
止まることを知れば危険な目に遭うことはない。

適度なところで満足することを知り、踏み留まるべきところをわきまえていれば、恥ずかしい思い、危うい思いをすることはないと語っている。

欲望に駆られて余計な心労を煩ったり、身を危険に晒したりすることなく、己の分に安んじて恬淡として生きよという処世訓である。

ここで注意すべきは、老子が否定しているのは、食欲や色欲のような生理的な欲望ではなく、名誉や財物に対する欲望だということである。

上に引いた第四十四章の冒頭では、次のように問いかけている。

名と身といずれか親しき。
身と貨と孰れかまさる。

名声と身体とではどちらが切実か。
身体と財貨とではどちらが大切か。 

これは自問自答で、むろん老子は、名声や財貨よりも身体の方が切実で大切だと言いたいわけである。

名誉欲や物欲に惑わされて、人間にとって最も大事な身体を損なうようなことがあれば、それは本末転倒で愚の骨頂だと戒めている。

これは、名教と呼ばれる儒家の価値観を退ける発言でもある。
伝統的に中国人は「名」を重んじるが、とりわけ儒家においてはその傾向が強く、名分を正すこと、後世に名を残すことにこだわる。

老子は、こうした儒家的な価値観を無意味で有害なものとして否定し、身の安泰を長く保つことこそが何よりも大事だと主張している。

欲望は戦争のもと

『老子』第四十六章には、同じように欲望を否定する言葉がある。

わざわいは足るを知らざるより大なるは莫く、
とがは得んと欲するより大なるは莫し。


災禍は、満足することを知らないことより大きなものはない。
罪過は、人の物を手に入れたがることより大きなものはない。

この世の最も悲惨な災禍は、満足することを知らないことから起こるもの、この世の最も重大な罪過は、人の物を我が物にしようとする強欲によるものであると語っている。

前後の文脈から、ここの「禍」は戦禍を指す。『老子』の中には、戦争に言及した章が数多くある。

この章では、戦争の原因が、他者の領土や財物を自分の所有にしようとする欲望が抑えられないことにあると述べている。

飽くことのない欲望、この人間のさがが悲劇や災難を生んでいるのは、昔も今も変わらない。

語弊を覚悟で言えば、人類の歴史は殺戮の歴史である。

近くでは、太平洋戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、そしてウクライナ侵攻。「大義」という名を装った大国の欲望のゆえに、いったいどれだけの尊い命が砂漠に埋もれ、大海の藻屑となって消えていったか。

進歩がもたらすもの

思えば、「進歩」という一見誰でもが肯定する概念も、ホモサピエンスの DNA に宿命的に組み込まれた「欲望の亜種」なのではないか。

科学の「進歩」で世の中は便利になった。しかし、より便利になった分だけ人はより豊かに、より幸せになっただろうか。

「進歩」によって得たものは多いが、失ったものはそれよりもっと多いのではないか。

環境破壊、人口爆発、核兵器、サイバー犯罪、貧富の格差など、いずれも「進歩」の名の下に人類が飽くなき欲望を満たそうと努力邁進してきた結果の産物だ。

これから先、さらに宇宙開発、人工知能、クローン、遺伝子操作など、昔は神の領域であった所にまで踏み込もうとしている人類の未来が如何なるものになるのか。

それが本来我々が望んでいたものではない方向へ向かった時、それを必然の成り行きとして諦観してよいのか、人類の叡智に期待すべきなのか。 

「知足」を説き、「小国寡民」を構想した老子は、2000 年以上前からすでに人間の性の危うさを悟っていたのかもしれない。

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