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忘れるということ

 整体では「忘れる」ということをとても大切にします。ですから講座などでも「メモを取らずに話をしっかり聞いて、そして後は忘れなさい」などと言われたりするのです。

それはシュタイナー教育でも同じで、「忘れる」というプロセスを丁寧に挟み込んだカリキュラムで授業を構成します。

初めはその理由が何だかよく分かりません。普通は「忘れないようにきちんと覚えておかないと」と、そう考えると思います。

ですが、よくよく考えてみると、私たちのあらゆる活動の巧みさは「忘却」というプロセスの上に成り立っているのです。

みなさんは自分がどうやって歩いているのか分かっていますか? どうやって自転車に乗っているのか説明できますか? あるいは初対面の人とどうやって親しくなっていくのでしょうか?

転ばずに歩いたり、自転車を乗りこなしたり、初対面の人とおしゃべりして仲良くなったり、私たちは生まれてからずいぶんいろいろな行為を学習してきたはずですが、どのようにその行為を学んできたのか、そしてその行為を今どのように実現しているのか、そんなことはすべて忘れてしまって、ほとんど何も考えずにこなしています。

「いったいどうやってそんなに上手くやっているんですか?」と他人から問われたときに、自分のその巧みな行為をスラスラと説明できる人などおそらくいないでしょう。

ある意味、私たちはそれにまつわる知識や経験をすっかり忘れてしまって考えないで済むからこそ、巧みに使いこなせる面があるのではないでしょうか。

ご飯を食べようとするたびに、お箸の持ち方や指の使い方をいちいち再確認しながら食べるのだとしたら、それは巧みさというものからはほど遠い行為となってしまうことでしょう。

「体験/記憶」と「忘却」のリズムというのは、人間の成長や学びにとって深い意味を持っています。それは私たちが何かを食べて消化する営みに似ています。

たとえば私たちはニンジンを食べて、それを自分の栄養としていますが、「これは私の大切な栄養だ」と言って、ニンジンを大切に握りしめていてもそれは何の栄養にもなりません。

ニンジンを自分の力とするためには、ニンジンを噛み砕き、破壊し、原形をとどめないレベルにまで分解してしまわなくてはいけません。それをニンジンと呼べなくなるくらいにまで破壊することによって、初めてニンジンが自分の力となるのです。

ですから私たちがまだ忘れずに意識できている知識は、私たちにとってさほどの力とはなりません。それはいわば手に持ったニンジンであって、まだ文字通り「ちょっと囓っている」程度のものなのです。

それはやがて何かの力にはなり得ますが、意識にある限りはどこかニンジン臭さをあたりに漂わせているのであって、まだまだ真に自分の血肉になったとは言えません。

私たちを突き動かす力となるのは、忘れられ、消え去ったモノたちです。噛み砕き、破壊され、そのカタチを失ったモノたちです。

そのカタチは破壊され、忘れ去られてしまいましたが、その力は私たちの血となり肉となり、今この瞬間の私たちの力となって、私たちを突き動かしています。そうやって、体験や認識が、人の意志となってゆくのです。

忘却というプロセスを経たその意志が、はたしてどこからきたのか、私たちはもはや思い出すことはできません。

ですが深く忘れられ、深く血肉化した体験こそが、私たちの意志の核となっているのだと思うのです。それが「三つ子の魂百まで」と言われる所以でしょう。

私は昔から講座の時に、「自分の話なんて覚えなくて良い、忘れても良い、というよりむしろ聞いていなくても良い」と、そんなことばっかり言ってきました。それは冗談で言っているのではなく、本気で言っているのです。

今でもそうですが、私は「自分の話を聞いてもらうために」しゃべるのではなくて、「ふと何かが思い出されるように」しゃべりたいのです。

それは私が、聞く人に何か新しい知識を身に付けてもらいたいのではなく、すでにその人の知っていることが、私の話を聞いているうちに「ああ…あれはこういうことだったかも知れない」と動き出して、内側で他の体験とつながり出したり、組み替えが起こったりして、再び熱と力を生み出すような、そんなプロセスが進むことを期待しているからなのです。

それはある意味、聞く人の知識や体験に対する信頼でもあります。

「みんなもうすでに知っているはず。忘れているだけで。」

私のすべての原点にその確信があるのです。

だから私が何か新しいことを伝えるまでもなく、ただそのことをもう一度思い出してもらいさえすれば良いのだと、そう確信しているのです。

忘れること。忘れていること。

私はそんな「忘却の境目」で、「お忘れ物は?」と声掛けする案内人でありたいのです。

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