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強調表現の「神」に関する一考察

「永遠の5倍」や「神の創造主の作り手」は、言葉の上では使えますが、実態をイメージするのは困難ですよね。表現の話を書きます。

「神アプリ」とか「神アプデ」といった形で、あるいはAKB48だと「神7」なんて言い方もありますけれども、「神」という強調表現がずっと気になっています。 オルフェウスや菅原道真と同格なの? と思うし、それ以前であれば「超」と言っていた代わりに使うことの是非とか。日本語には「救いの神」という表現があるので、 「比喩的にありがたいもの」のことを神と呼ぶことは日本の伝統からして不自然ではありません。 もっとも神という言葉はどの宗教であれ超自然的な存在を指しますので、 アプリやアップデートやアイドルグループが超自然的な存在であるわけがないので、どうなんでしょう?

これ何かというとネットスラングだったりとか雑誌なんかでも使われるかもしれないんですけれども、ジャーゴンですよね。また他の表現でどのように素晴らしいのかということを言葉にせず「神」と使って表現を手軽に、インスタントに済ませるという側面もあると思います。 手軽に表現して内向きにジャーゴンが通じる間柄に通じればいいという伝え方は随分閉じていると思いますし、 ジャーゴンを使うことでそのコミュニティに対する帰属意識というものを高める働きがあると思うのですけれども、「神」という言葉を超の代わりに使うコミュニティに対しての既属意識を高めることにどんな価値があるのでしょう。コミュニティはもちろん大切なんですけれども、どのような方法で、あるいはどのようなコミュニティに属するかというのは考えてもいいんじゃないかというふうに思っています。

言葉の使い方をあれこれ指し図して窮屈にするつもりはないんです。 ただ言葉というものは自分の行動にも他人の行動にも影響を与えますし、その言葉を使うということは投票行為でもあるので、 自分が何に投票してしまっているのかということはもう少し能動的に考えてもいいと思います。 とくに考えておらず強調表現として用いていても、それも投票ですよね。

言葉は生き物で、時代とともに変化します。だから、ジャーゴンではなく、日本語の新しい使い方である可能性もあります。大多数が支持すれば、定着して新しい伝統になりますから。
あるいは、「超」のような文脈で何かを強調したい思いは、普遍的な欲求なのかもしれません。我々は、五七五で季語のある相聞歌を交わすことは少ないけれど、ラブレターを書いたり、LINEやメールやビデオ通話で、家族やパートナーと会話したい気持ちは変わりません。相聞歌の時代の人達も、ネットがあって、LINEや SkypeやAlexaでビデオ通話が出来るなら、使ったかもしれませんし。

言葉の変化の側面。
伝え方ではなく、伝えたい思いの普遍性も確認しました。

とはいえ、強調表現で「神」を気軽に使ってしまうということは少なくとも、その言葉を使うことに抵抗がない、恥ずかしくない、麻痺しているという点で、「思考停止してます」ということを表明している可能性があります。 例えば『罪と罰』で「ラスコーリニコフは、やっていいと思ったから老婆を殺した」とドストエフスキーは書いていないですよね。「ナポレオン主義」をラスコーリニコフが信じ込むことから始めて、実際は信じきれていないし、殺人を犯してもラスコーリニコフは何の達成感も得られておらず、自分が思い描いた超人のような自分とは異なる現実を見たくない様子も描いています。
我々の表現は世界史に残る文豪と同じクオリティである必要は無いけれど、規模も質も異なっても、何かを表現する点は同じだと思います。

「カチンときた」としたら、それは何か。「ムカつく」とは具体的に何かと、確認することは、表現を深めるために効果的です。この意味で、「神」と使って表現を終えてしまうことは、思考停止の可能性があります。YouTubeなどで、強い言葉としてサムネイルやタイトルで使い、動画の中身で解説をするという使い方もあるかもしれないけれど。

一つ言えるのは先のことを考えていないということです。 神というのは宗教によって何を神とするのか様々ですけれども、 一神教であったり西洋哲学で論じる神である場合は、抽象概念の極地のような言葉になります。 イメージして欲しいのですけれども、「神の創造主」という表現は言葉の上では使うことができます。 「永遠の5倍」みたいなものです。けど、何かに作られたり、あるいは消えてしまったりするものは、一神教であったり、西洋哲学が想定する神ではないはずなんですね。 極めて抽象度が高い概念だと思います。 それを「神アプリ」とか「神アプデ」と使ってしまうとなると、いつか時が来て、「だいぶこの表現も目新しさがなくなってきたし、新しい表現がいいね」という風に思った時に、 超の代わりに神を用いるように、神の代わりに何を用いるのでしょう。 案外サクッと見つけるのかもしれませんけれども。 その言葉を上回るものを見つけてくるのは大変なんじゃないですかという疑問はあります。

伝統に対して、あるいは倫理的な意味で敬っていない、不尊であるという感覚はあまりないんですけれども。 言葉の表現としてどうなんだろうという、ジャーゴンでありインターネットスラングなわけですから、表現としてどうかというのも論じるまでもないのかもしれませんけれど、ずっと違和感を持っている言葉です。

例えば、稲荷神社のお稲荷さんも神ですが、稲荷アプリ、狐アプデ、稲荷大明神7と使うことに、私は抵抗があります。こうした点を、あまり気にしないのが日本の文化風土なのかもしれませんね。


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