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懐かしの本 — 『ドリトル先生アフリカゆき』

バンコクの古本屋さんで見つけた一冊。
『ドリトル先生アフリカゆき』。懐かしくて、迷わず買った。

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裏には「小学3・4年以上」と書かれている。
この基準は、いったい誰が決めているのだろうか。
子供の頃は、この対象年齢より若い自分が、すでにその本を読めていることに、ちょっとした誇らしさを感じたものだ。少しでも大人びていたいものだった。
人生の中で子供でいられる時間こそ短くて、急いで大人になろうとする必要はなかったんだ、ということには大人になってから気づいた。

ドリトル先生シリーズは、小学校の図書室で知った。
「ドリトル」という言葉のひびきと、と挿絵にひかれて手に取ったのだと思うけれど、、、どうだったかな。後付けで記憶が上書きされているかもしれない。
とにかく、子供の頃は、タイトルと、挿絵と、本の物としての魅力 —匂いとか厚みとか、中央あたりのページを開いて閉じたときのポンっ!という音のよさとか— で本を選んでいた、というのは確かな記憶だ。

さて、この本、シリーズもいくつか読んでいるはずなのだが、どんなお話だったか思い出そうとすると、「動物語が話せるお医者さんの冒険物語」という、実に大雑把な記憶しか残っていなかった。
ただ、漠然と好きだったという印象は残っている。

話の筋は忘れてしまっていたが、ページを開いていくうちに「オシツオサレツ」には強烈な印象を持っていたことを思い出す。

オシツオサレツは「唯一無二の両頭動物」なのだ。

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この見たこともない奇妙な生き物の、「オシツオサレツ」という絶妙な名称と挿絵の姿にこころ惹かれたのだろう。
子供の頃の記憶は、断片しかないこと自体にも意味がありそうな気がしてくる。

あとがきで、本作品の原書を手にした石井桃子さんが井伏鱒二さんに翻訳を依頼したのだ、といういきさつを知った。
石井桃子さんといえば、私にとって「ピーターラビット」シリーズの「いしいももこ やく」の人。
その、いしいももこさんが、戦争のさなか、出版の統制令が実施された時代に、自ら出版社を立ち上げてまで出版につなげたのが本作品だ、ということを知り、じんときた。
そんなことも知らずに、子供だった私は子供らしくこの作品に心を動かされたんだよ、と。

余談だけれども、井伏鱒二さんと石井桃子さんがご近所さんだった、というところに「へえー」と思った。
そういうエピソードを知ると、国語の便覧に出てきたような偉人が、生身の人物に思えてくる。

さて、話を戻して。
大人になって読み返してみると、物語を通して、お金にまつわることが多く書かれていることに気づいた。

ドリトル先生は、お金に無頓着だ。

動物が大好きでたくさんの動物を飼っている先生に、妹が

「にいさん、こんなに動物ばかり飼っていたら、患者さんがひとりもこなくなるじゃありませんか(以下略)」

と忠告しても、

「わしは、金払いのよい人間よりも動物のほうが、かわいいのだ。」

と言い放つ。
動物語が話せるようになって、評判が広がり、一旦は裕福になるも、だんだんと先生の家に残る動物が増え、ワニやら居座る家には人間が寄り付かなくなり、またもや貧乏へ。

妹も愛想をつかして出て行ってしまったけれども、

「金なんてものは、やっかいきわまる。」
「あんなものが発明されなかったら、わたしたちは、もっとらくに暮らせたろう。しあわせでありさえすれば、金なんか、なんだというのだ。」

と、気にもとめない。

その事態を受けて、なんと動物たちが、自主的に家事を分担してこなすようになり、道ゆく人に野菜や花を売りながら、なんとかやりくりをするのだ。

なんだか、組織論でも語りたくなるような流れだ。

あるとき、サルのチーチーから、疫病が流行っているアフリカへ行って仲間を救ってほしい、と頼まれた。すぐさまアフリカへ発つ気はあるものの、船もなければお金もない。

そのことを動物たちが心配をしだすと、

「いや、うるさいなあ、また金の話だ」

とどなる。
船は船乗りから借りて、食料品は支払いを待ってもらうことにして、なんとか旅支度を整えるのだ。

アフリカでは様々なハプニングがありながらもサルたちを病気から救うことができた。
サルたちは先生にいつまでもアフリカにいてほしいと思うけれども、先生には借金があるので帰らなくてはならない。

サルたちが

「お金とはなんです?」

と尋ねると、チーチーが人間の国ではお金がないと何も手にいれることはできない、生きることさえ難しいのだと説明をする。

それをきいたサルたちは、

「そんな世界はまっぴらごめんだ!」

という。

そこでサルたちは感謝のしるしとして、あのオシツオサレツを先生に贈ることにしたのだ。珍しい動物の見物料をとって、お金持ちになり、借りた船を返せるということだ。

しかし、お金に無頓着なドリトル先生はここでも

「いや、わたしは金はいらんのだ」

という。
そこで、アヒルのダブダブが先生にお金の必要性をさとすのだ。
ドリトル先生の周りにいる動物達の方が、よほど、人間の世界に適応しているのが面白い。

結局は、帰路の途中でオシツオサレツの見物料で稼ぎ、借りていたものを返すことができた。
そこで先生は言う。

「金とは、まことにやっかいなものだ。」
「だが、苦労しないですむのも、またいいことじゃ。」

子供のころは、お金に無関心だったから、完全にスルーしていたのだと思うのだけれども。大人になって、お金のことを考えるようになった今、お金に焦点をあてて読んでみると、また別の発見がある。

大人になって読み返して、気づいたことは他にもある。
自分の顔が白くなりさえすれば、眠り姫に好かれると思っている黒人のバンポ王子。
ドリトル先生はこの王子に、魔術という名目で、薬で一時的に肌を白くし、その報酬として船を用意させ、一行は囚われの身からの脱出に成功する。
ここで、王子は世間知らずだが、純粋な心の持ち主、というキャラクターとして描かれている。
とはいえ、浮き彫りになる人種差別意識。

石井桃子さんも

人種差別の気持ちがなかったとはいえない箇所にぶつかると、私たちはびっくりさせられます。

とふれ、

ロフティングも、いま生まれれば、心から人種差別に反対しただろう、と私には思えてなりませんが、1886年にイギリスに生まれた彼は、やはりその時代の子であることをまぬがれなかったのす。

と綴っている。

アメリカでは「ドリトル先生物語」は、公共図書館の公開の書棚にだしておくところは、ほとんどなくなったようです。

とも書かれていた。
子供の頃、気にもとめていなかった箇所。大人になって読んでみて、この作品の裏にあることも知ってみてよかったと思う。
議論されるべき問題であるのは確かだ。

それでも、この作品が子供の頃の私に、胸踊る体験をさせてくれたのは間違いない。

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