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謝るとは何をすることなのか――古田徹也さん最新刊『謝罪論』プロローグ全文

2023年9月22日、古田徹也さんの新著『謝罪論――謝るとは何をすることなのか』が配本となりました。

装丁=有山達也+山本祐衣

 『それは私がしたことなのか』では「行為の哲学」を、『言葉の魂の哲学』ではウィトゲンシュタインとカール・クラウスの「言語論」を、『このゲームにはゴールがない』では「他者の心についての懐疑論」を――。一冊ごとに清新かつ独自の議論を展開してきた哲学者・古田徹也さんが新たに挑んだテーマは、ずばり「謝罪」

 子どもに謝罪の仕方を教えるのはなぜ難しいのか? そんな身近だけれど答えに詰まる問いに迫るために、言語哲学、倫理学、政治哲学、法学、言語学、社会心理学、社会学などの知見を総動員し、現実社会で起きた謝罪事例も取り上げながら、「謝罪」という行為の全体像に迫っていく、渾身の書き下ろしとなっております。

 本稿では特別に、そんな『謝罪論』のプロローグを全文公開させていただきます。ぜひ、ご一読くださいませ!


プロローグ

謝ることを、子どもにどう教える?

 小さな子どもに「謝る」ということを教える場面を想像してみよう。
 親はある時期から、悪さをした子どもを叱る際、こういうときは「ごめんなさい」と言うんだ、と教え始める。たとえば、わが子が家のなかで走りまわって騒いでいるとしよう。やめるように何度注意しても言うことをきかない。ついには、ふざけた拍子に物を壊してしまう。親は、「ほら、言わんこっちゃない。『ごめんなさい』は?」などと促す。

 そうしたやりとりが何度か繰り返されると、子どもはやがて、「ごめんなさい」とことはできるようになる。けれども今度は、場を取り繕おうと「ごめんなさい、ごめんなさい……」と言い続けたり、「もう『ごめんなさい』と言ったよ!」と逆ギレをし始めたりする。

 「違う違う! ただ『ごめんなさい』と言えばいいってもんじゃないんだよ」――そう言った後の説明が本当に難しい。実際、たんに「ごめんなさい」とか「すみません」といった言葉を発したり、あるいは頭を下げたりするだけでは駄目なのだとしたら、何をすれば謝ったことになるのだろうか。声や態度に表すだけではなく、ちゃんと申し訳なく思い、責任を感じることだろうか。しかし、「申し訳ないと思う」とか「責任を感じる」とはどういうことなのだろうか。そして、そのような思いや感覚を相手に伝えるだけで、果たしてよいのだろうか。結局のところ、「謝る」とは何をすることなのだろうか。

「謝罪とは何か」と問われて説明しようとすると、我々は知らない

 これは、謝罪とは何かを子どもに教えることは難しい、というだけの問題ではない。問いは我々大人にも自ずと跳ね返ってくる。我々は謝罪の意味をに説明することができるだろうか。

 もちろん、我々はある意味では、謝罪とは何かを知っているはずだ。我々は日常的に謝ったり謝られたりしながら生活している。謝罪とはどういうものか分かっていなかったら、そもそも日々の生活を送ること自体が不可能だろう。

 とはいえ、謝罪にまつわる種々の行為ができるということと、謝罪とは何かを言葉で説明できるということは、さしあたり別の事柄だ。かつて聖アウグスティヌス(三五四-四三〇)が「時間」とは何かをめぐって、「時間とは何か――誰も私に問わないときには、私は知っています。しかし、そう問われて説明しようとすると、知らないのです」(『告白』第11巻14章)と綴ったように。

 これから本書で明らかにしていくのは、謝罪とは何かを説明するのは一筋縄ではいかないということ、そして、それはなぜかということである。

 辞書で「謝罪」という語を調べると、「罪やあやまちをわびること」(『日本国語大辞典』第二版)とある。そこで、「わびる」という語にさらに飛ぶと、おおよそ次のような多様な語釈が並んでいる(同)。

(1)気力を失って、がっくりする。気落ちする。
(2)困惑の気持を外に表わす。迷惑がる。また、あれこれと思いわずらう。
(3)思うようにならないでうらめしく思う。つらがって嘆く。また、心細く思う。
(4)おちぶれた生活を送る。みすぼらしいさまになる。
(5)世俗から遠ざかって、とぼしい中で閑静な暮らしに親しむ。閑寂を楽しむ。
(6)困りぬいて頼み込む。困って嘆願する。
(7)困惑した様子をして過失などの赦し[1]を求める。あやまる。
(8)その動作や行為をなかなかしきれないで困るの意を表わす[2]。

 これらの語釈のうちでは(7)が、謝罪することとしての「わびる」の意味を説明しているように思われる。しかし、厄介なことに、(7)にあたる行為をすることは可能だ。それこそ、困った顔をしながら偉そうな調子で「お互い様でしょ。もう水に流してよ」と頼むことによっても、「困惑した様子をして過失などの赦しを求める」ことはできるのである。(ちなみに、「あやまる(謝る)」という語を調べても、「過失の赦しを求める。わびる。謝罪する」(同)と記載されているだけだ。つまり、「謝罪」、「わびる」、「あやまる」の間で語の説明が循環してしまうのである。)

 辞書を調べても、謝罪とは何かは浮かび上がってこない。したがって、別のアプローチが必要だ。本書では、主として言語哲学の議論を手掛かりにしつつ、ときに倫理学や政治哲学、法学、言語学、社会心理学、社会学などの知見も幅広く参照しながら、謝罪という行為の内実を探っていく。同時に、学問上の抽象論に終始することなく、我々が日々の生活のなかで謝罪する具体的な実践にも目を配っていく。

謝罪とは何かを探究することの二つの意義

 その過程で本書が示す一定の見通しを、ここであらかじめ大雑把に述べておくなら、謝罪とは、互いに関連し合う多種多様な行為の総体にほかならない。いくつかの種類の謝罪に共通して言える特徴が、別の種類の謝罪には当てはまらない。ある種類の謝罪に関しては申し分のない説明が、別の種類の謝罪に関しては不適当な説明になる。――種々の行為の具体的な中身を解きほぐし、その全体を見渡すことによってはじめて、「謝罪とは何か」という大きな問いに答えることができる。本書はその実践である。

 しかし、そのような実践にどんな意味があるのだろうか。我々が日々、実際に謝罪したり謝罪されたりすることができているのなら、それで十分ではないか。「時間とは何か」という深遠な問いに答えることができなくとも日々の生活に支障はないのと同様に、謝罪とは何かを言葉で十分に説明する必要はないのではないか。

 この疑問に対しては、主に二つの観点から応答することができる。まず一つ目は、我々は自分自身のことを必ずしもよく理解しているわけではない、という点である。謝罪という行為は社会のなかで非常に重要な位置を占めており、我々の生活の隅々にまで深く根を張っている。だからこそ、謝罪の内実は複雑であり、多種多様なのだとも言える。普段は目立たず、注目されにくい謝罪の諸特徴を、あらためて照らし出していくこと――そうして、この行為の詳細と全体像を掘り下げていくこと――は、なかなか骨の折れる道のりだが、我々の生活や社会について、ひいては我々自身について、より深い理解を獲得することにつながるはずだ。古代ギリシア以来、人は「自分自身を知る」ことを求めてきた。謝罪とは何かという探究は、少なくともこの目的に資する実践だと言える。

 そしてもう一つは、実際のところ我々は必ずしも適切に謝罪ができているわけではない、という点である。ときに我々は、自分ではちゃんと謝ったつもりでも、「それでは謝ったことにならない!」とか、「そんなものは謝罪ではない!」と言われることがある。また、自分では謝る必要はないと思っていても、「なんで謝らないんだ!」と言われることがある。謝罪に関して駄目出しをされるのは子どもだけとは限らないのだ。

 そして、謝罪の不適切さは、謝罪を(謝罪を)側についても言うことができる。たとえば我々は、相手に対して過剰な謝罪を要求してしまうことがあるし、そもそも謝罪を求めるべきでないところで求めてしまうこともある。また、逆に、謝罪を求めて然るべきところで、相手や周囲から「それは過剰な要求だ」などと言われ、口を塞がれてしまうこともある。いずれにせよ、適切な謝罪がなされない事態を避けて、謝罪をめぐる失敗が問題のさらなる悪化をもたらすことを防ぐためにも、謝罪について理解を深めることは大きな助けとなりうる。

 我々が謝罪しようとするとき、具体的には何をしようとしているのか。また、相手に謝罪を要求するとき、いったい何を求め、何を願っているのか。これらを詳しく、明確に捉えることは、我々が自分自身を知り、自分の心情や思考を整理して、不適切な謝罪や不必要な謝罪を回避することにつながるだろう。また、その場を収めるためだけの謝罪(その場しのぎで、その場を取り繕うためだけの謝罪)がまんえんしているこの社会にあって、現状を見直す足掛かりにもなりうるだろう。

【註】
[1]『日本国語大辞典』第二版では、実際には「赦」ではなく「許」という漢字がここで用いられているが、(1)相手が何かをするのを許可することと、(2)相手の罪などをこれ以上とがめずに済ませることとの混同を避けるため、本書ではこの箇所以外でも、(1)の意味の「ゆるす」は「」、(2)の意味の「ゆるす」は「」と表記して、区別を明確にしている。この点については本文の84頁や88頁も参照されたい。
[2] 日本語の「わびる(侘びる、詫びる)」という言葉の多義性については、第1章第3節において、あらためて主題的に取り上げる。

目次

プロローグ

第1章 謝罪の分析の足場をつくる
第1節 〈軽い謝罪〉と〈重い謝罪〉――J. L. オースティンの議論をめぐって
第2節 マナーから〈軽い謝罪〉、そして〈重い謝罪〉へ――和辻哲郎の議論をめぐって
第3節 謝罪にまつわる言葉の文化間比較

第2章 〈重い謝罪〉の典型的な役割を分析する
第1節 責任、償い、人間関係の修復――「花瓶事例」をめぐって
第2節 被害者の精神的な損害の修復――「強盗事例」をめぐって①
第3節 社会の修復、加害者の修復――「強盗事例」をめぐって②

第3章 謝罪の諸側面に分け入る
第1節 謝罪を定義する試みとその限界
第2節 謝罪の「非本質的」かつ重要な諸特徴
第3節 誠実さの要請と、謝罪をめぐる懐疑論

第4章 謝罪の全体像に到達する
第1節 非典型的な謝罪は何を意味しうるのか
第2節 謝罪とは誰が誰に対して行うことなのか
第3節 マニュアル化の何が問題なのか――「Sorry Works! 運動」をめぐって

エピローグ

文献表
あとがき
索引

著者略歴

古田徹也〈ふるた・てつや〉
1979年、熊本県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科准教授。東京大学文学部卒業、同大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。新潟大学教育学部准教授、専修大学文学部准教授を経て、現職。専攻は、哲学・倫理学。『言葉の魂の哲学』で第41回サントリー学芸賞受賞。その他の著書に、『それは私がしたことなのか』(新曜社)、『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』(角川選書)、『不道徳的倫理学講義』(ちくま新書)、『はじめてのウィトゲンシュタイン』(NHKブックス)、『いつもの言葉を哲学する』(朝日新書)、『このゲームにはゴールがない』(筑摩書房)など。訳書に、ウィトゲンシュタイン『ラスト・ライティングス』(講談社)など。

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