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『紙が燃え始める温度』を題名にした不完全燃焼のディストピア文学?



《華氏451度》は、タイトルが似ているだけの、映画『華氏911』や、アニメ化もされた『炎炎の消防隊』なんかをイメージしてこの本を手に取ると、騙されたような気分になるかもしれません。
最初の数ページで間違いに気づいて放りだすか、辛抱強く最後まで付き合ったあとで、期待はずれの内容と結末に不完全燃焼を起こす可能性大です。
が、読み手の嗜好や年齢などの条件しだいでは、予想外にどハマりする場合もあるようです。

わたし個人のオススメ度は、正直にいって★2ぐらいなのですが、この作品は映画化されている影響もあるのか、某大手通販サイトのレビューなどでは高い評価が目立ちます。
なので、わたしの好き嫌いはちょっとわきに置いて、ブラッドベリのこの作品を取り上げてみたいと思います。



《華氏451度》の主人公の職業は“ファイアマン”(fireman)で、彼は書物を焼却するのが仕事です。
英語で“fireman”は消防士(現在は性差別を避けるため“firefighter”が使われる)のことですが、ここでは本を燃やす「昇火士」を意味します。

これは本の所持が禁止された世界を描いた物語です。
相互監視と密告が奨励されたその世界では、人々は自分本位の刹那的な楽しみを追求することにしか興味がなく、見せかけの平和を享受していました。

昔は「消防士」が火事を消していたと聞いても冗談にしか思わず、見た目の装備だけなら大差ない「昇火士」たちが、消火活動の代わりに本や家を焼くことを仕事とする。主人公もその昇火士のひとりでした。

善良な市民にとって本は有害で、そこに書かれている思想は社会の秩序を損ない、人々を混乱させるとして、今なお残されている書物は昇火士たちによって片っ端から炎のなかに葬られていました。
焚書がおこなわれている理由は、本を隠匿し、知識を保存しようと考える異端のレジスタンスの存在のせいでしょう。

主人公が暮らす社会では、本から無意味な知識を得たり、そこに書かれている思想に感化されて余計なことを考えるのは異端者の所業とみなされていたのです。
ものごとを深く考えることなく今を楽しく生きることのみを考え、本を読むような異端者は密告し、彼らが捕らわれ、彼らの本や家が炎にのみこまれるところを見物することに楽しみを見出している…そんな悪夢のような世界です。

それを悪夢のようだと思うのは、わたしが本が好きで、本を焼いたり捨てるなどの考えられない人間だからで、現実には本を読むのはくだらないと本気で思っているひとも普通にいます。

でもこれって、どこかネットの炎上騒ぎの心理を連想させませんか?

刹那の楽しみを追いかけ、炎上や犯人探しをおもしろがるタイプなら、異端者が追跡されるのを面白がったり、本や家が焼かれるさまを笑いながら眺められるのでしょうか?



密告があれば出動し、所有者の家ごと本を燃やすのが主人公の日常でした。
それが昇火士である彼の仕事で、もちろん自分のその仕事になんの疑問も持ってはいませんでした。
ある日、仕事帰りの夜道で、不思議な少女クラリスに出会うまでは…。


彼はクラリスの目のなかにおのれの姿を見た。二つのきらめく水滴の奥に黒く小さく浮かび、口もとの皺にいたるまですべての細部がそこにある。まるで少女の目が二つの菫色の琥珀となって、そこ奇跡のかけらのなかにそっくり包みこんでいるようだ。

レイ・ブラッドベリ著《華氏451度》より引用


一緒に夜道を歩いたのはほんの数回でしたが、彼女の語る言葉に耳をかたむけた体験は、主人公のこころにそれまでにはなかった何かを芽生えさせました。
やがて、主人公は本を手に取り、そこに書かれていた思想にふれます。
それについて考えはじめることで変貌してゆき、そこから彼の混迷と転落(この世界での尺度では)の日々がはじまるのです。


ブラッドベリの独特の文体や世界観には、ハマるひとはハマるだろうし、作品によっては非常に効果的でもあるのですが、《華氏451度》の場合は読み手によって意見が分かれそうです。

徹底した思考管理がおよんだ社会と焚書を題材にしたこの物語は、どういうわけかわたしには、読んでるあいだじゅうずっと、どうにも落ち着かないザワザワした気分にさせられる作品でした。
特殊な構造の社会なのに、政治や体制側についてはほとんど描かれず、現実の社会をまだよく知らない若者が、頭の中で都合よくおもい描いた夢をかたちにしたような、どこかリアリティに欠ける印象が拭えないせいもあったかもしれません。

もっと率直にいうなら、それはさながらテレビドラマか、バラエティ番組の追跡ゲームか何かのようでした。
そのせいか、追手をふり切って逃げまどう主人公の背景に感じられるのは、企画書やテレビ局のようなにおいであって、そこに生きた社会が存在しているようには感じられなかったのです。

むろん、作者が故意にそれを狙った可能性もなくはないでしょう。
Wikipediaには【ブラッドベリ自身は『この作品で描いたのは国家の検閲ではなく、テレビによる文化の破壊』と2007年のインタビューで述べている 】という記述もあります。

しかしそれ以外にも、どうにも物語の内容や基本のトーンと、文体や描写の統一感にどこかズレやブレがあるというのか、わたしには作者自身の迷いがそのままそこにあらわれているように感じられました。

ブラッドベリの代表作として知られる『火星年代記』では、年代ごとにいくつものエピソードが綴られて、さながらアソートクッキーのようにひとつの物語を構成していて、それも作品の魅力となっています。
読み手は自分の好みですきなクッキーに手を伸ばせばいいし、好みでなければそのままにしておけばいいのです。

《火星年代記》のエピソードのなかには「つまらない」ものもあれば、なにかしら妙に「暗示的」だったり、「この本の中でここがいちばん好き」というように、読み手ごとにそれぞれ異なる受け取りかたや、それらを許容する数多の要素が混じりあって、そこにブラッドベリの独特の世界観が構成されていたのです。

わたしが勝手に思うだけかもしれませんが、率直にいうと『華氏451度』は、作者がこの長さにまとめるのにちょっと苦心した作品なのかなぁという印象でした。
物語じたいは決してそれほど長くはないのですが、作者にすれば中途半端に長くなってしまったか、実際には3倍の長さを要するはずの作品を無理矢理この長さにおさめたか…なんとなくそんな印象を受けてしまうのです。

そういう「余計な何か」が邪魔をしなければ、作者の描く世界観にどっぷり浸かり、カリカチュアライズされた現実世界をそこに重ねて楽しむこともできたかもしれません。
作者の心理や、物語の社会の背景にある病巣を読み解こうとしたりしなければ…のはなしですが。

わたしは映画は観ていないのですが、こういう社会の背景を故意に描かずに暗示させるだけならば、おそらく映像のほうが上手くやれるのではないかと思います。



ブラッドベリ作品なら、わたしは《華氏451度》よりも、《火星年代記》のほうが推しです。

《火星年代記》のなかで、「わたしは最後の火星人だ」と宣言して、火星人の遺したものを守りたいという想いに殉じたスペンダーや、反逆者となった部下を最後まで殺すことを躊躇った隊長ほどには、本作品の登場人物はわたしのこころには響きませんでした。

というよりも、この同じタイトルと設定で、スペンダーや隊長のような人物を主人公とした物語を読みたかったなと、そんなふうに思ってしまうこれは作品でした。


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