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物語る理由は何か

 物語が紡がれる理由は「物語りたいから」以外にない。これは例外なく、全ての物語に当てはまることである。そして物語りたくないのに紡がれるとすれば、それは物語ではないとも言える。
 では、物語りたいと誰かが思うのなら、その動機は何処にあるのか。何かを発したいと願うという原動力には、しばしば負の感情や抑圧がかかわっているとされる。つまり一般的に、人は嫌な気持ちを物語というクリエイティブへ変換する(昇華)ことが、プロセスとして語られているのである。

 けれど、通り一遍に、「人は抑圧から解放されるために作品を作る」などと言うのは簡単である。もちろん、そうではない動機があり、そしてそれは人生によって様々であるからこそ、面白いのだ。物語とは他人から見れば、物語った人の奇妙な心の動きを観察できるまたとないチャンスである。それゆえに、その成り立ちに一定のルールがあっては、そのせっかくのチャンスも、「同じような物語」によってつまらなくされてしまう

 私たちは理性的な存在なので、物事にルールを当てはめたり作り出したりするのが得意だ。こと物語に対しても、そういったアプローチが当然に試みられている。多くの参考書があり、そして方法論がある。それらは駆使され、あるいは指摘され、物語を紡ぐ際の常識となる。その学びは、これから物語を紡ごうとする人々へと受け継がれていく。
 しかし往々にして、そこには「物語りたいから」という理由が欠けている。あたかもそんなものなくとも、技術的にどうにでもなるかのように。あるいはそのような気持ちを持っていることは当たり前すぎて、説明するのを失念してしまったかのように。

 今一度、大切なのは理由だ。もちろん、それは人それぞれかもしれない。でも、物語として成り立つためのエッセンスとして、「これを物語りたいから」という理由が構造的に不可欠であることを、物語りたい私達は、物語らせたい人々は、充分に、言葉だけでなく、わかっていなければならない。

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