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どうして誰かに思い通りになってもらいたいのか?

 誰かを律しようとすることの欲望が、どうしてこの人間に備わっているのか本気でわからない。誰かを自分の思った通りにしたくて、命令したり、提案したり、根回しをしたり、たくさんの労力をそこに使う意味が、どうしても見いだせない。
 もちろん1つの理由として、そこに利益がからむのだから、そのために人を動かしたいはずだ。お金や、愛や、満足感や、支配欲や、そういった何かを手に入れるために、誰かを自分の思い通りに動かそうという気持ちが生じるのは、概して当然である。

 けれどもそれは、その動かされる誰かにとっても目指したいもののはずだ。往々にして、誰かの利益は他の誰かの不利益になる。人間社会が律された秩序の世界ならば、これだけ叫ばれる平等や公平や公正は、無視されてはならないはずだ。それなのに、誰かを律しようとすることの欲望は、いつでも私達の腹の中に渦巻いている。誰かを不幸にしてでも(それに気づかないということでも、同じである)、自分のためにそれを使うのだという意思が、消え去ることはない。

 究極的に私達は、この同じ社会に存在する他人が気に食わないのかもしれない。あるいは邪魔に思っているのかもしれない。そのために、私達は自分のものさしで他人に口を出し、苦言を呈し、題目を掲げ、律し、そして自身の養分としてしまうことを良とするのである。

 でもそんなことを続けていけば私達のこの社会はいずれ形をなさなくなる。多くの価値観と経験と多様性と未来へのビジョンが備わっているからこそ、全体として人々は良い方向へと歩いていけるはずなのに。
 それよりも私達は、どうしたって個人なのだ。
 どうしたって、自分の気に食わなさが勝ってしまう。だから他人を律する。イライラしてしまう。正したくなる。思い通りにしたくなる。そのことで誰かが、不本意な動きや状態を強いられていても、目になど映るはずがない。

 律する。しかも他人をそうする難しさと傲慢さは、多分、人間だけが持つ罪の一端である。

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