「不寛容」はクラスタ化により爆発する

西暦2020年である。
ここに至るまで人間は、様々な技術開発を行い、研究を進め、生活を豊かにし、多くのものを支配してきた。
その中でも特筆すべき変化というのが「個人主義の進行」だと感じる。

人間は社会的な動物として発生し、歴史の中で他者を認めることで生きてきた。
しかし、技術の発展とともに個人でできることも増え、自由意志は増大した。そのために現代の人類には、まずは個人として優先される感覚が根付いていた。

だが、それでも人間が社会的な動物から始まったという、遺伝子的な事実は覆らない。個人として尊重されながらも孤立を嫌い、他者と繋がろうとし、模索を続けてきたように見える。

結果として、我々は折衷案を見つけたのだ。
それが、個人と社会の中間である「クラスタ」というものだ。実際の意味はどうあれ、少なくとも私には、そのようなものとして感じられる。

このクラスタは、個人的好みを規制されることなく、他者と一体にもなれる素晴らしい仕組みだった。
だが、それは良いことばかりではない。
個人的であることと社会的であること、それぞれの悪い部分も併せ持っているのだ。
つまり、個人的な感覚・好みのまま、その発言力や行動力が集団の強さになってしまった。
それが、クラスタの危うさなのだと思う。

このあまりよろしくない特性により、個人的不寛容は止められず、我々はいつでも暴徒と化すようになった。

西暦2020年である。
ここにきて、もしかすると人類は転換期を迎えているのかもしれない。
少なくとも、我々は自覚すべきだ。自身が「クラスタ化」しているにもかかわらず、個人として振る舞っていると思ってしまっていることを。

社会的な動物が個人的な動物へと進化し、今はそのどちらも併せ持っている。
そのような中、不寛容さが爆発する現在、我々はこれから先、更に進化することができるのだろうか。

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