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就労支援日記⑮~「ひねくれる」を哲学する~

毎月最終金曜日に開催される哲学カフェ。

9月のテーマは「ひねくれる」。

風の丘の哲学カフェは、ひとつのテーマを2回にわけてかんがえることになっている。

1回目は西洋哲学の本質論的な考え方。「〇〇とは何か?」、「○○とは△△である」という形式でかんがえる。

2回目は仏教論理学の因果論的な考え方。「△△があるから○○がある」、「△△がなければ○○がない」という形式、つまり原因を探りながらかんがえてみる。

今回は1回目。

「“ひねくれる”とは何か?」との問いに、それぞれが、それぞれの立場で挑んでいく。

「いっしゅの“カッコつけ”なんじゃない」と、トップバッターのPさん。「本音では親しくなりたいのに、あえて自分から離れていくようなことをいう、みたいな」。

「自分の場合だと、感情の裏返しかな…」

「感情をそのまま出せない、勇気のなさなんだと思う」

「反抗心もあったりする」

「作為的な心のあらわれもあるような…」

「“ひねくれ”って、やっぱりどこかにうそがあるような気がする」

 今回はテーマがテーマだけに、どことなく身を切るような発言が目立つ。

「ひねくれるって、やってる本人はいいんだろうけど、周囲の人が大変なんだよね…」と発言したZさんに、
「どなたかひねくれやすい人が、身近にいるんですか?」との質問。

「いや、私がそうだから、周囲の人は大変だったろうな…、と」。

 みんなで爆笑。

「ぎゃくに言うと、“ひねくれる”って、それを受け止めてくれる人がいるからできることですよね」

「一人でひねくれてても、仕方ないもんな」

一同、納得。

最初は「ひねくれ」を生み出す意識の機制から話は始まり、その後は、どうやら「ひねくれ」という出来事は、親密圏的な人間関係の「あいだ」で生起するのではないか、という関係論的な思索へと至っていく。

「いったんひねくれだすと、自分の力ではどうしようもなくなっちゃうんですよね。やめようと思っても、止まらないというか」

こうして主題は、個別的出来事から関係論的なダイナミズムの迷宮へと展開されていくのだった…。


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