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「家族介護者支援について、改めて考える」㉑「ケアの思想」について期待しすぎないこと。

 いつも読んでくださっている方は、ありがとうございます。
 おかげで、こうして書き続けることが出来ています。

 初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
 私は、臨床心理士/公認心理師越智誠(おちまこと)と申します。


家族介護者の支援について、改めて考える

 この「家族介護者の支援について、改めて考える」では、家族介護者へ必要と思われる、主に、個別で心理的な支援について、いろいろと書いてきました。

 ただ、当然ですが、「家族介護者支援」ということを考えた時に、そこには、様々な幅の広い要素や、今まで少しは知っていたつもりだったことに関して、実は、とても考えが足りないことに気がつかされることもあります。

 もしくは、現状について、これまでのことをもう一度、できれば丁寧に振り返ることによって、「家族介護者支援」について、自分の何が足りないのか。を改めてわかるかもしれません。

 今回は、ここ何年かでよく聞くようになった「ケアの思想」について、考えたいと思います。

「ケア」という意味の広がり

 ここ何年かで「ケア」という言葉を聞く機会が増えてきたように思っています。
 それは、思想というような分野や、アートでも目にするようになりました。

 そして、もちろん「ケア」には「介護」も含まれるのですから、普段はあまり気にかけられない印象があるのですが、もっと日常的に扱われるのではないか、と期待もしていました。

 この10年ほど、家族介護者の心理的支援の必要性を訴え、同時に、その個別の心理的支援の仕事もしてきたのですが、自分の力不足もあって、特に「家族介護者の心理的支援の必要性」への理解が、社会に広がらない焦りもありました。

 ですので、こうして「ケア」があちこちで語られるようになれば、その「必要性」も少しでも広く伝わるようになるのではないか、とも思っていました。

「ケア」というのが、「介護」だけで語られるよりも、もっと意味の広がりがあれば、その「介護」に関しても改めて注目され、だから、より「介護者支援」のことも考えられるようになるのでは、とも期待していました。

「ケア」の倫理

 例えば、この書籍では、こうした指摘がされていました。

文学研究の領域においても、〈ケア〉という価値は長いこと貶められてきたからだ。

(「ケアの倫理とエンパワメント」より)

 文学研究の領域については、恥ずかしながら無知ではあったのですが、ただ、こうした研究者が、それまでの「ケアを軽視する見方」に対して異を唱えることで、社会の価値観というものが少しずつでも変われば、介護を取り巻く環境も変わるのではないか、という気持ちになりました。

文学作品のなかに描かれる〈ケア〉こそが、他者を阻害し、犠牲にしてまでも“自立した個”の重要性を掲げる近現代社会が軽視してきた価値ではないかという問いを提示した。

(「ケアの倫理とエンパワメント」より)

 さらには、文学作品だけにとどまらず、その外側の社会についても考察を広げてくれていました。

 しかし、〈ケア〉を社会全体で引き受けるような国の政策が打ち出されないかぎり、自己犠牲であると分かっていても、育児や介護を担う多くの女性たち(時に男性たち)はケアすることを放棄しないだろう。なぜなら脆弱な存在の子どもや高齢者は、彼女ら(彼ら)のケアの行為なくしては生きてゆけないからだ。そして、特権を持つ強者が社会のマジョリティであるかぎり、公的、私的領域において弱者がケアの担い手とならざるを得ない現状はそう簡単に打開できそうにない。

(「ケアの倫理とエンパワメント」より)

 この書籍↑が出版されたのが、コロナ禍の最中の2021年でした。

 さらに、2年後、同じ著者による「ケア」をタイトルに含む書籍↓が出版されたということは、その「ケアの倫理とエンパワメント」が社会に受け入れられた結果だと思い、心強く感じました。

いつか地球が〈ケアする惑星〉の名にふさわしい場所になることがあれば、それは〝ケアする人〟が大切にされるときだろうと思う。イギリス文学研究の領域においても、フィクション、ノンフィクションを問わず、主人公の助力者である〝ケアする人〟、つまりケアラーたちは諷刺の対象であったり、脆弱な存在であったりすることが多い。

(「ケアする惑星」より)

 この『〈ケアする惑星〉の名にふさわしい場所になる』ということに関しては、本当にそうなってくれれば、という気持ちになりました。同時に、そこに向かうには、現状では難しいことも多いのだとは容易に想像がつくのですが、まずは、そこに困難があることが把握されることが重要だとも思いました。

 日本では、悲しいことに、育児、看護、介護などのケアの営為に対する評価は著しく低い。私的領域でも公的領域でもケアの価値がないがしろにされているというこの切実な問題が語られないかぎり、家父長的な言説に抗うことはできないのではないか。

 二〇二一年の東京オリンピック開催は、医療危機、感染者の爆発的な拡大、ホームレスの人たちの強制退去などを見ても、〝ケア〟に関する想像力が欠如する今の日本の政治を象徴していた。 

(「ケアする惑星」より)

 そして、ケアについて、こうした指摘を改めてしています。

二〇二〇年、コロナウィルス感染防止に関する会見で松井一郎大阪市長が「女の人は買い物に時間がかかる」と発言していた。ケアの倫理論者の岡野八代氏(中略)「この発言は、家族のため、というか他人のために買い物をしたことがない者だからこその発言であろう」とケアする人とケアしない人の差異を浮かび上がらせている。(中略)日々のケアは他者のニーズを想像しながら「迷い」「悩み」などから遂行する尊い活動であることに改めて気づかされた。  

(「ケアする惑星」より)

 確かに、こうした「名前のつかない介護行為」は、まだ理解されていないことにも改めて気がつかされました。

「ケア」の思想

 私個人の勝手な期待だったと今になれば分かるのですが、こうして介護の現場以外の方々が、「ケアの倫理」や、さらに「ケアの思想」について語り、考えてくれる機会が増えれば、現在の「介護」に対しても、避けたいこととしてだけではなく、さらに本質的な議論がされるようになり、より理解されるのではないか、と思っていました。

 その結果として、家族介護者にこそ、心的支援の必要であることへの理解も、少しでも社会に広まっていくのではないかと期待していました。

 ですので、ここまでに紹介した著者の書籍だけではなく、ここ何年かは、「ケア」という言葉をタイトルにしたり、「ケア」をテーマにした、「介護の専門家」以外の書籍や、講演会などにもなるべく接するようにしてきました。

 もちろん、自分の能力では限界もありますし、それほど多数を経験したわけでもないとは思うのですが、そうした機会を重ねるたびに、だんだん視界が薄暗くなっていくような、もしくは、気持ちが重くなっていきました。

 例えば、この書籍は、自分の理解力の不足はあるにしても、とても介護のことと関係があるとは思えませんでした。

 翻訳をした 河村 彩氏が、「訳者改題」として、こう書いてくれています。

ケアとセルフケアの対立という発想である。本書におけるケアとは、生政治国家によって提供される医療や福祉のシステムのことである。一方グロイスの考えるセルフケアとは、自己に対する配慮全般のことである。ここで留意しておきたいのは、英語の“care” という単語は、医療や福祉と結びついたカタカナの「ケア」よりも広い意味を持つということである。

(「ケアの哲学」より)

 ここ何年かは、ここまで述べてきたように、「ケア」を広げる言葉を多く目にし、聞いてきた気がします。

 もちろん、自分自身の考えや感覚の偏りがあるから、絶対の正解であるとは思えないのですが、ここ何年かは、新自由主義が極まりつつある「資本主義」へ対抗する思想の一つとして「ケア」を思想として取り扱うことが、ブームになっていたような印象があります。

 それは、古くからありながら見過ごされてきた新しい視点なのかもしれません。

 ただ、共通していたのは、「ケア」を広く考えるという姿勢のように感じました。それは、社会のことを考えると必要だとは思うのですが、そうした言葉の数々は、私の個人的な感覚で言えば、遠い上空で交わされる天の声のようで、実際に介護することと関係があるような気がしませんでした。

 それは、もしかしたら、ケア=介護のようになってしまったことに対して、もっと広くケアをとらえる、という意味では必要だったのかもしれません。(ただ、介護にケアという言葉が当てられたのは、2000年に介護保険が始まり、ケアマネージャーという資格が登場してからだと思います。当事者である介護関係の人間が望んだわけではありません。少なくとも、その当時、家族介護者である私は違和感を覚えていました)。

 ただ、ここ何年か、ケアの思想のようなものに接するうちに、あえて家族介護のようなことを語るのは避けられているような気もしてきました。このブームが何年続いても、介護者への理解が深まることはないように感じ、気持ちがだんだん重くなってきたのだと思います。

 それは、臨床心理学を学び始めたとき、私が考えている、家族介護者の心理的支援は、心理士には敬遠されるかもしれない、と聞いた時の気持ちと似ていました。それは、心理的支援としては、泥臭いらしく、そのせいかどうかははっきりとわかりませんが、それから10年以上経ち、その言葉通り、今も臨床心理士の方で、介護者の支援に目を向けてくれる人は少ないままです。

 それは、ケアの思想のブームの流れと、似ているような気がして、それで、気持ちが暗くなっているように思います。

家族介護者の思想

 介護をテーマにしたり、介護について書かれた書籍や文章は、なるべく読むようにしています。それによって、新しい知見や、自分では分からない視点を得ることもできるからです。ただ、その度に、自分が知らないことばかりと思うことも少なくありません。

 この書籍↑が出版されたのは2000年ですが、こうしたことまで書かれていました。

 ケアという行為は、通常考えられているように、たとえば「私がその人をケアしている」といったことに尽きるのではなく、むしろ「私とその人が、互いにケアしながら、〈より深い何ものか〉にふれる」というような経験を含んでいるのではないか

(「ケア学」より)

 私は、1999年から介護に専念することになったのですが、確かに、介護には、そういう側面があると思っていました。自分というよりは、その生活の中で知り合った他の家族介護者の方と接しているうちに、そうしたことを感じる時が少なくなかったからです。

 こうしたことを書いてくれる人が現れたということは、その後、家族を介護することそのものに対して、思想的なものも含めて深まっていくのではないかと、勝手なことなのですが、期待していました。

 ですので、ここ何年かの「ケアの思想」ブームの中でも、ケアの広がりは感じつつ、それと並行して、家族が介護することそのものへも注目が増し、その意味を深めてくれるのではないかと思ってしまっていました。

 
 それから、20年以上が経ち、同じ著者が出版した現時点での最新の著書(2023年)では、「ケアとしての科学」という章があり、40ページにわたっているのですが、それは、ケアをひらき、広げていくという視点からはとても意味があるように思いました。

 人類の社会構造の価値の転換自体を考える時代に来ている、ということが書かれた書籍ですから、その中のケアの扱いとしては重要だと思いましたが、「ケアをひらく」の中で表現されていた「「私とその人が、互いにケアしながら、〈より深い何ものか〉にふれる」というような経験」を、さらに深めていくことに通じるようには思えませんでした。

 著者の他の著作や論文をすべて読んでいるわけではありませんので、こうして断定するような書き方をするのはフェアではありませんが、この何年かの「ケアの思想」ブームと同様に、家族介護の意味そのものを深めること自体が、避けられているような気持ちにもなりました。

手を差し伸べる人

 この記事↑でも触れたので繰り返しになってしまいますが、介護の思想としては、ルソーが「人間不平等起源論」で書いていたことが、今も納得できる気持ちになります。 

あわれみは自然の感情であり、それは各個人においては自己愛の活動を和らげ、種全体の相互保存に協力するものであることは確かである。われわれが苦しむ人たちを見て、反省しないでもその救助に向かうのはあわれみのためである。また自然状態において、法律や風俗や美徳のかわりをなすのもこれであり、しかもどんな人もその優しい声に逆らう気が起こらないという長所がある。

(『人間不平等期限論』より)

 この「あわれみ」という言葉自体は、現代ではプラスなイメージだけではなくなっているようですが、ここでは、「困った人がいたら、考える前に、手を差し伸べるような人」が語られているのだと思います。

 しかも、ルソーは、この著書の別の箇所では、理性よりも、こうした「あわれみ」の方が、人類が社会を維持していることに貢献しているのではないか、と分析しているような部分もありました。

 それは、改めて注目されているように思える「利他」の思想にも通じることだと考えられないでしょうか。

 ですから、ルソーの「あわれみ」と、「利他」をつなぐように考えれば、それは、介護する意味を、さらに深められるとも思っているのですが、自分が知っている範囲では、そうした方向には進んでいないように見えます。

期待しすぎないこと

 例えば、介護の専門家に関しては、その介護行為に関して、さまざまな分野からの分析や評価も進んでいます。

 この書籍↑では、人間行動学者の視点から、認知症高齢者のグループホームでの観察を通じて、介護の専門家による行為が、どれだけ高度なものか。ということを再認識させてくれる内容になっていると思いました。

 こうした介護の専門家以外の視点から介護が語られることは、介護(ケア)を広げることにも貢献しているのは確かだと思います。

 その一方で、家族介護者に対しては、こうした視点で語られることは、ほとんどないように思います。とても優れた介護者に、個別にスポットライトが当たるような扱いがされるようなことがあっても、ごく一般の家族介護者が、どのような日常を送っているかに関しては、あまり関心が持たれているような印象はありません。

 ケアの思想がブームになった時、家族介護者にも注目がされるかと思いましたが、今のところ、そうした動きはありません。もちろん、自分が知らないだけでしたら、無知のせいで申し訳ないことですが、最近になって、それは、勝手に他人に期待しすぎていただけだとも気がつきました。

家族介護者の心理

 とても個人的なことですが、臨床心理士の資格を取得するために大学院へ通い、修了するには修士論文の提出が必須でした。私は、改めて家族介護者の方々11人に個別でインタビューを行いました。だいたい、一人あたり約2時間。長い方は、5時間にもなりました。

 そのデータをすべて文字起こしをし、GTAという分析を行い、改めて家族介護者の心理の変化を、再発見したような思いになれました。

 介護が大変になるのは、介護環境が過酷で、特殊なせいですが、その時間に適応するために、家族介護者が独特な感覚を身につけて介護を続けていることが、改めて理解できたと思っています。

 その修士論文を元にし、書籍化しようと思ったのは、これで家族介護者の理解が少しでも進めば、効果的な支援も可能になり、そのことで、不遜かもしれませんが、介護殺人事件などが少しでも減らせれば、という思いもあったからです。

 ただ、自分の力不足もあるのですが、それから10年以上が経ち、今も出版社に企画書を送付するなどの努力は続けているのですが、恥ずかしながら、現時点では書籍化が全く見込めないままです。

 それもあって、どんな状況の中でも、家族介護者の心理への理解は必要だと思い、このnoteを2020年に始めました。

 特に、この「家族介護者の気持ち」↑は、修士論文のエッセンスを生かしたつもりですし、介護者の支援に関わる方がいらっしゃって、介護者の心理がわからない、という方のために、少しでも理解が進むように、という思いで書きました。

 ただ、これだけでは十分ではなく、もっと明確な形にしないと、社会に家族介護者への理解が深まらないことは、身にしみて感じるようになりました。

 特に論理的な能力に不足があるのは分かっているのですが介護者の心理が、もう一度、ルソーの「あわれみ」から先につながるようなことを考えていきたいとも思っています。

 そのためにも、「家族介護者の心理の変化」を、これまでにない程度には明らかにできたはずの修士論文(一枚40×40文字で、約120枚)を元にして、書籍化などに向けて再び努力をしていこうと思っています。

 それも含めて、介護者の心理が、臨床心理学で取り扱うべき、複雑で独特な状態であることを、まずは明確にしていきたいと考えています。(そのための努力は、今もこのnoteでしているのですが)

 どこまでできるか分かりませんが、あまり他人に頼らず、期待しすぎず、自分でなんとかしないと何も変わらないことを、この何年かの「ケア」のブームの中で、再確認できたような気がしました。


なお、ここで述べた「家族介護者の心理の変化」の書籍化について、ご興味がある出版関係の方がいらっしゃったら、ご連絡くだされば幸いです)



(他にも、いろいろと介護について、書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。





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