見出し画像

『「40歳を過ぎて、大学院に行く」ということ』⑲「将来」と「整理」

 いつも、このnoteを読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで、こうして記事を、書き続けることができています。

 初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
 私は、臨床心理士/公認心理師越智誠(おちまこと)と申します。


(この『「40歳を超えてから、大学院に通う」ということ』シリーズを、いつも読んでくださっている方は、「集中講義」から読んでいただければ、重複を避けられるかと思います)


大学院で学ぼうと思った理由

 元々、私は家族介護者でした。

 1999年に介護を始めてから、介護離職をせざるを得なくなり、介護に専念する年月の中で、家族介護者にこそ、特に心理的なサポートが必要だと思うようになりました。

 そうしたことに関して、効果的な支援をしている専門家が、自分の無知のせいもあり、いるかどうか分からなかったので、自分で少しでも支援をしようと思うようになりました。

 そして、臨床心理士の資格を取得するために、指定大学院の修了が必須条件だったので、入学しようと考えました。それが実現したのが2010年です。介護に専念して10年が過ぎた頃でした。

 私自身は、今、振り返っても、40歳を超えてから大学院に入学し、そして学んで修了したことは、とても意味があることでしたし、辛さや大変さもあったのですが、学ぶこと自体が初めて楽しく感じ、充実した時間でした。

「40歳を超えて、大学院に通うということ」を書こうと思った理由

 それはとても恵まれていたことだとは思うのですが、その経験について、(すでに10年以上前のことになってしまいましたが)伝えることで、もしも、30代や40代や50代(もしくはそれ以上)になってから、大学院に進学する気持ちがある方に、少しでも肯定的な思いになってもらえるかもしれない、と不遜かもしれませんが、思いました。

(もちろん、資格試験のために大学院へ入学するのは、やや一般的ではないかもしれませんが)。

 同時に、家族介護者へ個別な心理的支援を仕事として続けてきたのですが、少なくとも臨床心理士で、この分野を専門としようと思っている方が、かなり少ないことは、この約10年間感じてきました。

 もしも、このnoteを読んでいらっしゃる方の中で、心理職に興味があり、臨床心理士公認心理師を目指したい。

 さらには、家族介護者の心理的支援をしたいと思ってくださる方がいらっしゃるとしたら、できたら、さらに学ぶ機会を作っていただきたい、という思いもあり、改めて、こうして伝えることにしました。

 この私のnoteの記事の中では、もしかしたら、かなり毛色が違うのかもしれませんし、不定期ですが、何回かに分けて、お伝えしようと思います。そして、当時のメモをもとにしているため、思ったよりも長い記事になっています。
 よろしくお願いいたします。

 今回は、40代後半になってから、介護を続けながらも、臨床心理学専攻の大学院に通えることになり、夏休みが終わった、9月の上旬の頃の話です。

 もしかしたら、同じような環境の方に、わずかでも参考になるかもしれません。もし、よろしかったら読んでもらえたら、うれしく思います。

集中講義。

 9月1日。水曜日。

 明日が集中講義で朝からしっかり1時限から4時限まであります。

 入学以来、初めて、それだけの長い講義を受けるのですが、初日は、そのスケジュールのこともあって、義母にはショートに入ってもらったのですが、2回目からは、戻ってきますから、午前4時就寝で、1時限の講義から4時限の講義まで続くことになります。自分には、それほど体力もないですし、年齢も高いので、辛いのは分かっています。

 それでも、この4月から学校へ行くようになって、これまで10年間ひたすら介護だけをしていたときとは違って、いろいろな人と接する機会があって、その事で、また思った以上に影響があって、社会への気持ちが、また開いたのかもしれませんから、その講義も自分にとって意味があるのだと思いますから、なんとか頑張りたいと、今から思っています。

 そのおかげで、また希望がふくらむ可能性はありますが、ただ、厳しくなる一方のこの世の中で、人とのつながりが出来たというだけで,何かがうまく進むわけもないのですが、だけど、確かにまた何かが変っていくのかもしれない、というまだ幻想みたいなものですが、見えているものはあります。

 それでも、特に若い人達がいるのでつい比べてしまうのですが、自分には残り時間が少なくて、彼らから見たら20年以上も長く生きて、この程度なのか、という気持ちもあります。

 20代の時は、年齢より上に見られていて、二十歳のころ、40近くに思われたこともあったので、このままだったら40代の頃は、60歳に見えるのか、とちょっと悲しくなっていましたが、40歳を過ぎた頃から、そのときは介護だけに専念していて気がつかなかったのですが、体重を落としたせいなのか、実年齢より上に、あまり見られなくなりました。

 だから、もしかしたら、初めて実年齢より下に見られるようになるのかもしれない、などとちょっと調子に乗っていた部分もあったのですが、20代の本物の若さの前では多少若く見えることなんて、ほとんど意味がない事だと、すぐに分かりました。

 そして、そうした中で学んでいるしんどさみたいなものがあるのは、学ぶことは大げさに言えば体質を変えていくことの辛さだけではなく、あとは圧倒的に能力の違う人たちの中で闘っている、という厳しさみたいなものも感じているのですが、今のところそれでも何とかなっているのは、やっぱりとても必死なせいだと思います。

 若い時に一度は学生を自分でもやっていて、それは25年くらい前という、とんでもない昔なのですが、でも相変わらずその時間は記憶の中では手を伸ばせばそこにあって、その時は本当に勉強しなかったから、そう考えると、今はどこまで身についているかは別として、かなり真剣に学んでいるので、自分でも、ちょっと笑ってしまうような気持ちにはなります。

 一緒に学校へ行っている若い人達の印象が、どうしても自分の25年前とは重ならないし、かといって、今の自分の同世代とも、私自身は違う場所にいる感覚があります。なんだか変なところにいるみたいな気持ちがします。

一言

 9月2日。木曜日。

 集中講義があって、朝の1限からで、早く起きるのは、なんだかつらかったりもしたのですが、起きてしまえば、それほどつらくもなく(今回は前日からショートステイに義母が入ってくれたので、そのおかげで少しは眠れた、というのも大きいと思ったのですが)朝の電車も途中まで座れなかったのですが、動けないほどのラッシュでもなく、昔から満員電車が苦手だったので、少しホッとしました。

 だけど、学校に着いてからは、汗かきなのでシャツを着替えてコーヒーを買って、ぎりぎりに教室へ入ったら、まだ講師が来ていませんでした。

 生徒は9人。初めて講義を受ける講師が現れ、講義は思ったよりも面白くて、だけど、時々声が小さくて聞こえない時もあったりもして、そのあたりはある意味で苦戦したものの、学校や教師というものを改めて考えたり、改めて分かったこともあり、最初は受講を迷っていたのですが、講義を受けてよかった、と思いました。

 昼休みも、みんなで近所のスーパーへ弁当を買いにいき、教室で食べたりして,学生っぽくて楽しい時間もありました。講義が終わり、まだ午後5時前だし、と思って、図書館でも寄ろうかなどと思っていたら、今日の講義の履修申請を忘れていて、この講義を受けることができず、今まで実習だったという同期の人もあらわれました。ちょっとびっくりしたけど、自然に合流して、それから、校門を出て、どうしようか?と同期の4〜5人で学生らしく、微妙にうだうだしていたら、ガストに行こうと言ってくれた人がいて、そこへ向かいました。

 この1週間で3回目くらいのガストだと思います。だけど、同期の人達と来られて、なんだか嬉しく思えました。いつもの地下鉄の駅とは違って、このJRの駅前のガストは初めてでしたが、それから私だけが食事をして、他の同期の人たちはお茶をして、話は続きました。

 少し前から思っていたのは、カウンセリングは、もしかしたらエステや占いと、ライバル関係になるのではないだろうか、という話をしたら、それは違うかも、と即座に言われ、そうであるならば、もし臨床心理士になったとしても、この発想自体が反発を受けるだろうから、それならば、あまり安直に語るのは気をつけようと思えました。

 ただ、医者のように往診はどうなんでしょう?と聞いたら、それはやり方によっては、可能かも、というような話も聞き、それは未来にも希望が持てました。介護をしていて、しんどい人だと、わざわざ外出するのも難しくなるから、そこへ訪問してのカウンセリングのことをイメージしていたからでした。

 そうこうしているうちに1時間半くらいが過ぎ,何となく帰ろうか、という気配になり会計をすませる頃には微妙に暗くなってきていました。途中から合流した同期の人が同じような方向なので、どうやって帰る?という話になり、いつもの地下鉄でなく、JRに乗ることにしました。

 途中から駅で何人かが降りていき、同期と2人になったときに、突然、臨床心理士に向かないかも、という話を振られ、それに関する話題が続きました。それは、ここ何ヶ月かでも、自分自身でも思ったり、他の人からも何度も聞いた話ですが、それは、その人自身だけが思っているだけではなく、周いの人から言われていることなので、より重く受け止めているようでした。

 とても気にかかりましたし、もちろん同期として力になりたいのですが、できることは限られているはずです。それでも、協力はしたいと思えました。

 途中の駅から、公衆電話で家に電話をかけました。外出していた妻が先に帰っていました。今日は遅くなるかもと聞いていたので、ガストで食事をとったのですが、妻は自分の姉と吉祥寺に行って、すごく楽しかったと聞き、よかったと思いました。

将来

 9月3日。金曜日。 

 昨日の事で考えました。

 自分も含めて、大学院に通う多くの人が臨床心理士に向かないんじゃないか、みたいな事で悩んだりしているみたいで、それ自体について、さらにいろいろと考えたくなります。それは、一つは、これまでに傷ついたことがある人が、この臨床心理学の道に進んできていることが多い、という理由もあるような気がします。自分も介護をしていなかったら、この場所にいなかったのだとも思います。

 向かないと思った人が、ちゃんと悩んで、それで他の道を目指すというのは仕方がないかもしれないのですが、でも、傷ついた人の方が、それを乗り越えた時に、とてもすごくなる、というようには思ってもいたりするので、そういう人には、何とか頑張って臨床心理士になることを目指してほしい、と思っています。

 アートとサイエンスの両方の要素が必要、と言われる臨床心理士には、そうした悩むような人の方が向いているというような気持ちもあります。

講義

 9月5日。日曜日。

 今日は、アルツハイマー型認知症のことをテーマにした齋藤 正彦氏、という医師の話を聞きに、築地市場駅へと向かいます。この前の講義の時に、そこにいた同期の人達にもチラシを配ったのですが、多くの院生の人たちは、認知症の話には興味ないだろうし、と思いながらも、一人ぐらい来てくれたら嬉しいのだけど、と感じながら、この講座を紹介してくれたケアマネジャーは来てくれるのではないか、とは思いながら大江戸線に久しぶりに乗りました。

 目的の駅に着いたら、朝日新聞社の会社の建物の中を通り抜けて、その別館の中が会場でした。会場に入ったら、かなりの人が来ていました。200人くらいはいるかもしれません。最近、若い人ばかりの中にいて、生意気にもその環境に自分が少し慣れていたようで、久しぶりにかなり年齢層の高い中に入り、そこにいる人達の頭が白いという、介護をしている自分のいるべき場所に近いところに来て、少しとまどったりもしました。

 最近、若い人が多い中にいることが多く、人は環境に順応するのだと改めて思いました。見回しても知っている顔はいません。座席に座って、しばらくは出入り口を見て、誰か来ないかと思っていたが、来ません。始まっても来るかもしれない、と思いながら出入り口付近を見ていたのですが、そのうちにあきらめました。

 齋藤 医師の話は、時間がたつにつれ、その方自身の母親が認知症で,今は施設に入っていて、という話があって、最初は電話がよくかかってきた、みたいな話や、思っていたよりも以前から、本人は認知症の自覚があったらしい、という日記の文章も出してくれて、それで微妙に笑い声も起こったりもしたが、私は笑えませんでした。

 痛みみたいなものが伝わって来たような気がして、だんだん言葉も染みて来るようでした。最後の方で、楽しく明るく認知症なんてありえない、とか、マイクを向けたら患者の事が分かるのでしょうか?みたいな言葉が出て来て、それは本当だと思えました。

 そういう事までちゃんと分かっている専門家がいて、よかった、という気持ちと、こういう人が、負担が増えてしまうけれど、同業者に向けていろいろと話してくれたらいいのに、というような勝手な事まで思いました。

 どうして、専門家でも、こんなに差があるんだろう?帰りにアンケートを書いて、若年認知症の人のことのパンフレットと、チラシをもらいました。

 結局、誰にも会えずにちょっとがっかりして帰ってきました。この講座に出るために、義姉に家に来てもらっていました。義母も、妻も、義姉も、みんながいる駅前のガストへ向買いました。

 義姉には今度の講義の聞き取りの協力までしてもらいました。義姉に「学校へ行くようになってから生き生きしているみたい」と言われました。うれしい半面、浮かれているだけかもしれない、とも自分では思いました。

実習。

 9月7日。火曜日。

 あさっては集中講義で、朝の9時から授業で、午後4時過ぎまで授業があって、それも最後の4コマ目で発表もあるから、今から何だかあせっているというか、気持ちが変に上ずっているような気持ちにもなってしまっています。

 それは、明日は母が入院していた病院で、患者さんへの誕生日カードを作るボランティアの日なので、一日家にいられるわけもなく、それでいて、まだ発表の原稿も出来ていません。

 いろいろとやらなくては、と思っていることもできず、もちろん介護はとにかく続けなくてはダメなのですが、それでいて毎日が進んでいって、9月になっても、その感じが続いています。

 今日もカウンセリングの施設での受付の実習で、一人でやらなくてはいけなくて、だけど、はい〇〇〇〇でございます、という言い方にも少し慣れて、というのもあるのですが、スタッフの人とも少し顔なじみになったり、先生方が通りすがりに声をかけてくれたり、と、そこに自分がいる意味みたいなものがあると思えるようになったような気もします。

 実際にはいつ電話をとっても妙に緊張したり、慌てたり、というのは全く変らないのですが、迷惑をかける度数が、この年齢になっても変らないのは情けないとは思いつつ、ものすごくささやかだけど、少し社会に生きている感じがして、それはやっぱりうれしさにもつながっています。

 ここでの実習が一人になっても、かなり時間をもてあますような時があっても、あんまり苦痛ではなく、何とかここに来る人が少しでも気持ちが楽になるように、と、微力だけど、空気をわずかでもよくなるように、となるべく機嫌よく静かにいようと思っていました。

 そのせいなのか、日常と少し離れた気配の中にいるせいか、今日みたいに、そこに私しかいない時に、どやどやと、(本当にこういう音がするかと思いましたが)建築関係者が7人も入って来た時は、うわっと思いました。こうやって集団でどかどかと動くことに、自分だって、野蛮なのに、ちょっと怖くも思えました。

 それだけ自分の感覚が少し変わってきたのかもしれません。


これから。

 9月10日。金曜日。

 昨日も講義があって、朝から夕方まであって、午後4時過ぎに終わりました。

 私が最後の4時限目の発表で予定よりも長くなってしまい、だから悪いなという気持ちもあって、その講義の感想文を書く速度が人によって違うので、待っていたら、私だけでなく何人か教室で待っていて、それも書いている方にはプレッシャーだろうけど、その間になんていうこともない会話をしながら時間が過ぎていくと、ホントに学生っぽくてしみじみと楽しい時間でした。

 50歳手前になって、こういう時間が訪れるなんて、ものすごく恵まれているんだと思い、細かい事はついてないことが多いけれど、こうして同期の人達に恵まれるというか、楽しい事があって、それはヘルパーの時もそうだったけれど、そういう幸運はあるのだとも思います。

 そうやって、感想文を出してから、また校門の外で少しうだうだしてから、結局、少し歩くJRの駅前のガストへ行くことになり、考えたら、ここまでも、かなり時間の無駄をしているような気もするのですが、でも、なんだか穏やかな時間が過ぎて、うれしい気持ちでした。

 さらに同期も合流して、人が増え、それからJRの駅前まで歩いていきました。なんだか若い話をしながら歩いていって、ガストへ入って、ここのところガストへ入るのが多い、と思いながらも、何にしようかと思い、ハンバーグを食べることにしました。

 それから、ただしゃべっていて、別に酒も入っていないけれど、ぽーっとした時間が過ぎて、そこには1時間半くらいしかいなかったけれど、それからだんだん夕暮れになって暗くなってきた頃に解散になりました。

 そこから、JRの駅を使う人と、私のように地下鉄の駅には3人で10数分歩きました。その途中で、後期の履修申請の話もして、うまくいかない、といった話題も出ていて、そして、そのことでは、力になれずに申し訳ないままでした。

 帰ってからは、介護の時間です。

実習

 9月11日。土曜日。

 その実習は、私にとって3回目でしかないのに、妙に慣れて来て、それも自分がその実習を、他の人にもすすめるような気持ちになっているのに変な感じはしていました。

 でも、このセルフヘルプグループを、臨床心理士という専門家になる前に知っておくことはとても有意義な気が最初の時にしました。その話し合いの記録のメモをして、逐語録としてまとめるまでが実習でした。

 そのグループの司会の人が、こういう時にこそ使いたい表現ですが、サポーティブな進行をしていてすごいと思いました。セルフヘルプグループの集まりに参加している方々は、調子が悪いときは出てこられないのですから、こうして話を普通にできる状況で、率直な話を聞けるのは、とても貴重な経験だと思っていました。

 実習は、人が集まるものと、そうでないものがあるのですが、この実習は2人参加なのですが、積極的に声をかけないと、私一人だけになりそうでしたから、毎月、同期の方々を誘っていました。

 他の同期の方々にも、このセルフヘルプグループのことを実際に経験してほしい、というような気持ちになっているのも事実で、この経験を提供してくれる、この会の方々には感謝しています。

 待ち合わせの場所に向かったら、駅で今日、実習をお願いしていた同期の女性に会って、そこから会場に向かい、施設の入り口付近で白杖をついた人達が多くいて、そのうちの一人の誘導を少し手伝い、そして、ロビーに入ったら、論文のために来ていた先輩の人がいたので、あいさつをして、そして、3人で少し時間を過ごしてから、私は汗をかいていたので服を着替えて、それから2階に上がったら、もう指導教授はいらっしゃっていました。

 会が始まっていつも通りというか3回目に過ぎないけれど、その出席している人達に少し親近感を憶えるようになり、先月、大丈夫かな、と勝手ながら思っていた人は、姿が見えずに勝手に心配をしたりしていたが、会は始まり、時間が過ぎ、途中で論文のために参加していた先輩が会に参加したりもしていたのですが、その人も同じ状態の時もあったわけなので、そこで発言する資格はあると思っていました。

 途中でその人も退席したので、今日、初めて参加してもらった同期の人にもずっと頑張ってもらい、2時間が過ぎて、ちょっとぐったりはしたものの無事に終わってホッとして、その同期の人とこの会の記録の打ち合わせもかねて近所の喫茶店みたいなところでしばらく話をしていました。

 そうしたら時間が経ってしまったので、悪いかなと思いつつ、そろそろ帰りましょうか、となってから、その同期の人が、次の講義の発表の話になり、時間は大丈夫ということなので、そんな話になり、私も勉強になったのでありがたかったのですが、その話題に区切りがついてから解散になりました。

 この実習は、逐語録をまとめるまでが、実習です。

調子。

 9月14日。火曜日。

 今日は、集中講義の最終日。

 いつものように午前4時くらいまでは介護のために起きていて、それで、7時過ぎくらいに起きるので、朝が早いのも、3回目だから少しは気持ち的には慣れたのですが、あまり眠った感じもないので、起きた時は体もつらい感じがしました。

 1時限から4時限までの講義。

 途中で質問をしたのですが、言葉を巡ってのクレームのようにも捉えられてしまったようで、なんだかうまく伝わらなかった気もして、この年齢で、そのことについて未熟だという事でもあるので恥ずかしくもありました。

 入学時はほとんどそういうことを思わなかったのですが、いったん成績という形で評価されて、それが自分では思ったよりもよかったので、おそらくは、単位が取れるかどうか、といったことが気になるようになりました。学生の気持ちにだんだんなってきたようです。自分でも意外でした。

 講義が終わってから、大学から近い、昔ながらの喫茶店に行き、6人くらいで雑談しながら時間を過ごしていて、若い人たちばかりの中にいる自分はやっぱり不思議といえば不思議で、だけど、けっこう楽しい時間でした。

 そこは、午後6時には閉まってしまう喫茶店ではあったけれど、でも、若い人達が多い団体という事もあるせいか、アイスをサービスしてもらったりとして、なんだかありがたく、思いました。

 私はそこで夕食を食べようと思って、ナポリタンとコーヒーとアイスのセットを頼みました。

 あと1年半もある、というか、1年半は油断していると確かにあっという間からもしれませんが、学生生活をきちんと送るのと同時に、修了後に、仕事につなぐための事も、やっぱり学生のうちにやっておこうとも思うようになりました。

 ただ、今日の講義では、改めて自分の未熟さみたいなものも思いました。まだ全然力がないのに、少しはあると思ってしまったようだでした。なんだか、ちょっと恥ずかしい気持ちでした。

整理

 9月15日。水曜日。

 妻が、花屋の店長さんと、珍しく2人で出かけるので、家にいない時に、夕方まで実習の逐語録の整理をしていました。今日は、義母が家にいる日ですから、その途中で何度か見に行ったり、いろいろと介護をしながら時間が過ぎました。

 それから、しばらく廊下に箱に入ったまま置いてある本棚を組み立てようと思いました。最初は、そんなに時間はかからないと思っていたのですが、説明書では分かりにくい微妙なずれみたいなものもあって、どう組み立てたらいいか分からず、でも、組み立て途中で置いておくと、材料の1部に負担がかかって、ぎしぎしいって、壊れるんじゃないか、と思いながらも、そうした細かい作業が元々苦手なので、情けないのですが、放り出したくなったりもしました。

 だけど、葬式のお返しでもらった電動のドライバーの事を思い出し、それを使ってみたら、ウソみたいに早くネジが入っていき、作業が早く進むようになりました。

 その作業の途中で出かけて、義母のお寿司と自分の弁当を買いにいき、それから義母にお寿司を出したら、さっきまで「白いご飯にタマゴをかけただけでいいわ」と、微妙な事を言っていた義母も、「まーまーまーまー」とすごく喜んでくれました。

 90歳を超えた義母は耳がもう聞こえず障害者手帳をもらいました。もう立つこともできず、寝ている以外はほぼずっとベッドに座って、テレビなどを見ています。義母のために、もう少し何かできないか、とも思うのですが、生活のための介護をしているだけで、思った以上に疲れてしまうので、難しいままでした。

 それでも、お寿司などを買うと、時には「ばんざーい」と手を挙げて喜んでくれますし、食欲もあって、食事は、特にお寿司は一人で食べてくれます。スーパーで買った、それほど高いお寿司でもないのですが、あっという間にイカ以外(固くてかみきれないので、最初から抜きました)を全部食べている間に、私は本棚の作業の続きを汗をいっぱいかいて、不器用なので手間取りながら、Tシャツを2回着替え、なんとか出来た頃に妻が帰って来ました。

 楽しかった、と言って笑顔でしたから、よかったと思いました。さっき、買い物に行った時に、入っていた妻の留守番電話の伝言には、いつもなら入っている「たのしかったー」という声がなかったので秘かに心配もしていたりもしていたのですが、ただの考えすぎのようでした。

 妻は、お出かけしたので、チョコのお土産も買ってきてくれて、そんなに気を使わなくていいのに、と思ったのですが、やはり嬉しく思いました。

 それから2階にあるアート関係のプログラムとか本などを下へ運んで新しい本棚へ入れました。廊下が狭いから、ちゃんと並んでいる本を見られるかどうかも心配に思えたのですが、何しろ、部屋の中に雑然とあるよりはいいかもしれませんし、これから、2階の部屋をもう少し機能的にしないと、これからの生活に対応できないかもしれません。

 その一方で、コンピューターをうまく使えば、スペースはかなり少なくてもやっていけるかもしれない、などとも本を運んだりしながらも考えました。

 食事をして、夜も本を移したり、ファイルを作ったり、透明な棚を秋の講義用にタイトルを変えたりして、妻を寝かせた後、なんだかぐったりとしました。眠くもなったのですが、こういう日に限って、義母のトイレはかなり多く、ゆっくりもできません。

 それでも軽く筋トレをして、明日からの講義のことも思い、これからまた自分で決めた新しいこと(自主的な勉強会とか、みんなでアートに触れるとか)をやらなければ、という誰が決めたわけでもなく、別にやらなくてもいいのに、自分自身だけで決めたことなのに、勝手なことなのですが、軽いプレッシャーはあります。

 介護はずっと続くから、やることが増えすぎると、他の人はともかく、自分の能力を越えてしまうから、気をつけなくてはいけません。でも、それくらいをやれるようにしないと、これから大学院を修了した後、とても生き抜いていけないから、なんとかしないといけない、という自分を責めるような焦りはあります。

 出版界は、これからおそらくこれまでにないくらい下がり続けるだろう。もし、その中で再び仕事をしていく、としたら尋常でない努力や才能や、または独自である事で必要とされるのだと思います。50歳を超えてからなってから、それらを考え続け、自分のものとするのは、とても不可能に近いのですが、でもそれを目指さないと未来はないのは分かっています。

 臨床心理士としても、フリーのカウンセラーみたいな立場で生き残れないと、この年齢の人間を雇う場所もなさそうなので、本当に生き抜いていけないと思います。

 けっこう厳しいのは分かっていますが、でも、だから、再び働き始める前に、楽しくは過ごしたいけれど、でも、準備も進めないといけない。

 そうしたことを思っていると、介護を続けながらでも、焦りはずっとあります。




(他にもいろいろと介護のことを書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。




#介護相談       #臨床心理士  
#公認心理師    #家族介護者への心理的支援    #介護
#心理学    #社会人大学院
#社会人入学   #介護   #多様性を考える
#私の仕事
#家族介護者   #臨床心理学   #介護者相談
#介護負担感の軽減    #介護負担の軽減
#家族介護者支援    #在宅介護
#家族介護者の心理   #介護離職
#心理的支援への理解   #認知症 #認知症介護
#自己紹介 #あの選択をしたから
#介護施設
#大学院  #臨床心理学



この記事が参加している募集

自己紹介

多様性を考える

 この記事を読んでくださり、ありがとうございました。もし、お役に立ったり、面白いと感じたりしたとき、よろしかったら、無理のない範囲でサポートをしていただければ、と思っています。この『家族介護者支援note』を書き続けるための力になります。  よろしくお願いいたします。