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自分発の問いがあること(#5 甲斐かおりさん)

自分のしごとをつくるゼミ 文章で生きる編
2024.1.30~4.9
参加して感じたことを書いています。

第5回 甲斐かおりさん
ライター / 執筆家

働く自分、書く自分として、沢山の気づきを頂きました


ライターになったきっかけ

「元々は会社員でした。30代になり、子供を産むことを意識した時、食べ物を作れないのに、自分が子供を産んで良いのだろうかと思って。モノが生まれる原点を知らないことに気付きました。その現場は?と考えたら地方だったんです。」そう考えて、甲斐さんは、ライターの仕事を始めたらしい。ライターという職業に思い入れがあったわけでなく、自分が知りたいことを知れる手段として、ライターがたまたまあったという。

一般的に「ライターになりたい」「事業家になりたい」と職業名にあこがれを持つ人は多いのではないかと思う。でも甲斐さんは、地方を知ることに興味があり、ライターには固執していなかった。職業ありきでなく、興味を起点に仕事を考えることは、自然なようで、理想的なあり方のように思えた。


「嫌いなこと」がテーマになる

「地方にこだわるのは、元々田舎が嫌いだったことが根っこにある。嫌だった裏側には、こうなって欲しいという願いが沢山あった。」

「閉鎖的で、嫌いだった田舎が、バージョンアップしていく。田舎を魅力的なものに変えていこうとする人たちがいることに、ものすごく意味を感じていた。書くことで応援したい。」

だからこそ、地方をテーマに書き続けてこれたと甲斐さんは言う。何かを書き続ける背景には、そうした自分の生い立ちが、良くなってほしいという願いがあるのかもしれない。

前回の中原さんだってそうだ。「食」をテーマに書く背景には、まともに食事もとれず、彷徨った末、おじさんに拾ってもらい、そこで食べた一杯のラーメンの感動が、今もなお体に残っているのだと思う。


自分発の問いがあること
(=何に心が動くかはコントロールできない)


甲斐さんが教えてくれて、なるほどと思った。「何に心が動くかはコントロールできない、どうしても心が動いてしまうものは、自分のテーマになるのだな」と思った。

「そういう分野は一人一人違うのではないか。書くモチベーション、動機は一人一人違うものを持っているのではないか。」と甲斐さんは続ける。

これを書いてる今、実家の宮城に帰省して、とあるフォトフェスティバルに父と行った。

そこで見た1960年頃の青森を映した一枚。

写真に写った4人が、どんな関係性なのか。家族なのか、友人なのか。背中に背負っているものは食べ物なのだろうか。一体どれほどの距離を、何分かけて歩いているのか。様々なことを話しながら鑑賞した。

はるか遠い昔のように僕には思えたが、父は違ったらしい。幼少期に見た風景と、目の前の一枚を重ねて、遠き日のおもかげを、そこに見出しているようだった。

僕にはピンと来なかったけど、父の心は、確実に動いていた。僕も、父も、これを読んでいるあなたにも、心が動く瞬間があり、それは自分発の問いを呼べるものに、十分なるのではないだろうか。

塩竃フォトフェスティバル2024(3/17まで)
「風景を見つける -小島一郎の写真-」より


おわりに

「嫌いだった」

お話の中で、この言葉が印象的でした。「嫌い」には強い関心を感じる。こうあってほしい願いが込められている。でも同時に「嫌い」なものが実は面白いんだ、すごいんだって認識のパラダイムシフトが起きた時、それは人生をかけて取り組むに値するテーマになる気がした。

だって「嫌い」なほど、関心を持っていることが、面白いんだって感動した時、その感動は一瞬でしぼむことなく、自分を突き動かし続ける動力になるから。

僕もそうだった。幼少期からずっと働きたくなかった。毎年春になりリクルートスーツに袖を通す学生をニュースで見るたび、憂鬱な気持ちになった。
「仕事=我慢の対価としてお金を頂くもの」だと思っていたし、暑い時期なのに、長袖シャツを着て、その上にジャケットを着る意味が分からなかった。

自由への喜びに胸を膨らませた大学入学式も、卒業後に働かなくてはいけないという事実に半分くらいは憂鬱だった。幸いなことに、在学中に様々な仕事を知り、そこで働く大人と出会い、沢山の仕事を目にした。

ディズニーランドほどの広大な農作地で、キャベツを永遠と収穫したあの夏、お昼に食べた塩コンプ漬けキャベツが美味しかったこと。後ろ足で蹴られる怖さに怯えながら、牛の搾乳後に飲んだ牛乳がとても甘かったこと。自分が覆われるほど大きなワカメを洗って、商品にならないメカブをかじったこと。

知れば知るほど「仕事=辛い」という固定観念が崩れていった。そして僕はいま、日本仕事百貨を主宰するシゴトヒトによる「しごとゼミ」を受けている。

嫌いでも、好きでも、心が動いたことに、気づくことは大切だなと思う。これから先、仕事や人生のあり方が多様化する中で、自分の心が羅針盤になる気がしてならない。

『ほどよい量をつくる』を読んで

最後に甲斐さん著「ほどよい量をつくる」を読んで、印象に残った箇所を。

ほどよい量とは、大量生産や少量生産など規模の話だけでなく、お客さんに”求められる量”と言い換えられるかもしれない。

 『ほどよい量をつくる』(P90)

プロセスを知って気づく価値
家にあるガラスコップ一つ。誰の手で、どこでどんなふうに作られたか、答えられる人はいるだろうか。肌触りの良さがわかる、だから美味しいんだとわかる、そんな腑に落ちる瞬間がある。そうして買うものには、安心感がある。モノの成り立ちを知らないことは、その価値を分からないことでもある。

 『ほどよい量をつくる』(P92)

「わたしここのお茶を飲むたびにこの風景を思い出すんだよね。ぱあっと山や畑が思い浮かんで、また買っちゃうの」そう聞いてはっとした。杵柄さんのお茶が愛飲される理由の一つは、この風景もあるのだ。

『ほどよい量をつくる』(P101)

販路を自分たちで持っていないからこそ、直接、自分からお客さんと繋がらないと販売することができない。ところがそれが強みになってるとも言える。直接消費者とつながり、関係を築いてきたからこそ、小規模でも他者に依存しない自律した経営を営むことができている。食べる人の顔が見えることで、仕事のやりがいも感じやすい。

『ほどよい量をつくる』(P103)

つくる人が売る
製造から販売まで自社で関わることで、最初から最後まで、あなたの責任ですよとなり、いいモノを無駄なく作ろうと工夫する。ところが、あなたはここからここまでやればいいですよと範囲を限られると、その前後は考えなくなってしまう。

『ほどよい量をつくる』(P120)

つくり手の思いとは、結局使い手への思いなんです。大切に使ってはしいし、長く使ってほしい。そのために創意工夫すれば、仕事は楽しくなるはずなんです。

『ほどよい量をつくる』(P126)

すべての工程を一人で担当することで仕事の質が変わる。通常、工場での仕事は分業制で、一人が同じ作業を何度も行う。繰り返すことで一枚にかかる時間が減り、生産効率がどんどん上がる。よって枚数が多いほど割りのいい仕事になり、少量では採算が合わないというのが常識なのだ。

「そこをあえて一人で縫製、アイロン、検品と1着ずつ仕上げていく。場合によっては肩入れから裁断まで。一時的に生産性は落ちるかもしれないけど、個人の技量の伸び具合がすごいんです。長い目でみると短期間の生産性よりずっと価値のあるものとして残る。」

ファスナーつけばかり、ボタン付けばかりと分業が進むと仕事は「作業」になってしまう。ところがこの服はすべて自分がつくったんだと言える仕事ができれば、やりがいが生まれる。作業化していた仕事が、変化し始める。

『ほどよい量をつくる』(P130)

誰に向けて売るかを考える。ターゲティングって年代や性別などの属性区分だと思いがちだけど、じつは欲求の分類なんだ。

『ほどよい量をつくる』(P212)

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