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[小説 祭りのあと(2)]六月のこと~女将の秘密~

 「かんぱーい!みんなお疲れぇー」
 僕たち十八人は、大座敷を借りて打ち上げを始めた。梅雨の合間の晴天日。商店街と周辺の若者が集まって、この日は草野球をやってきた。
 そういう訳で、今日は特別に早めに開店してもらった。汗だくでカラカラの身体に麦芽百パーセントの生ビールがジワーっと染み渡る。昼三時過ぎのお酒は、罪悪感もありつつ優越感も味わえる。
 大衆割烹ゆきは、僕たちの疲れを癒す憩いの場だ。夜になると完全にシャッター街になる商店街に、ポツッと灯るネオンはとても目立つ。美人で評判の女将の響子さん目当てのお客さんで、お店は毎日いっぱいだ。明らかに利益無視の価格設定も、女将の心意気が伝わってくる。「何処かいい店ない?」と聞かれたら、迷わずこの店を勧める。

 ガラガラ。こんな時間に誰かがゆきの引き戸を開けた。
 「あら、まだ開店時間じゃないんで…」
 響子さんの声が詰まった。身体は大きいが表情は幼い少女が、入口に立っていた。
 「響子さん……お母さんですか?」
 へぇ?響子さんに娘さん?響子さんくらいの女性なら、一人くらい子供がいても確かにおかしくはない。しかし、響子さんは過去を一言も話さないので、僕たちはそんなこと一切知らなかったのだ。

 響子さんは誰もいないカウンター席にその少女を呼び寄せて、オレンジジュースを差し出した。無神経な大人たちの騒ぎ声の中で、僕は耳をそばだてて聞いていた。二人の間には無言の時間が続いていた。

 「愛ちゃん……元気みたいのー」
 「うん」

 それきりまた二人は何も喋らない。もどかしいが僕が立ち入る状況ではない。
 二十分くらい経って、少女はお店を後にした。響子さんはお店の外まで彼女を送った。

 「ちょっとごめん。すぐに戻るけぇ」

 あれ?なんでこんなことしてるんだろ?
 「なんだよ」との周囲の声も気にせず、僕は出口に佇む女将さんのほうへ向かっていた。

 「娘さん、なんですか」
 「ええ……あんなに大きくなって」

 九年振りの再会だったそうだ。
 よく言われるすれ違いの末に離婚し、一度も会っていなかった。元の旦那さんにはこの場所を伝えていなかったことから、何故この場所が分かったのか不思議だと言っていた。
 遠ざかる薄桃色のスカートがふわりと揺れる。少女の後ろ姿はどう見ても寂しげだった。

 「ちょっと行ってきます!」
 「え、いいのよ!心配しなくって……」

 心配せずにいられるものか。
 会話ができないのは、話題がないからじゃない。話せない事情があるからだ。
 赤の他人の僕がしゃしゃり出るのも変だが、他人だから話せることもあるのだと信じた。
 まだジョッキ一杯しか飲んでいない。僕は早歩きから徐々に小走りし始め、少女を追った。

 すぐ近くのマリーナまでやってきた。
 ジョッキ一杯でも走るのは危険なのだと初めて解った。何艇ものボートがぐらんぐらんと回って見える。胸のむかつきが頂点に達し、恥ずかしながら僕は海に吐いた。

 口の中の気味悪い酸っぱさを我慢して、防波堤に佇む彼女に近付いた。彼女は釣り人を眺めていた。どうすればいいんだろう……伏し目がちな表情がそう語っていた。

 「ごめんね。お店から追いかけてきちゃった。どうしたん?」
 少女は見るからに驚いて、僕のほうを振り返って見上げた。そして少し嫌な顔をした。
 「臭いっ」
 「ごめん…お酒、臭いかぁ」
 臭いを避けるように海のほうへと視線を向け直す少女。僕もまた体育座りをして、彼女と視線が合うようにした。もちろん口は右手で押さえた。

 「お母さん、嫌なのかな」
 「えっ、さっきのこと?」
 軽く頷いた彼女の長い髪が、潮風になびいて水面と共にキラキラと輝いた。
 「結構時間掛けて来たのに、無駄だったのかな」
 「何処から来たん?」
 「下関」
 「遠いね。わざわざ来たのは、何か理由があるんでしょ」
 一人の釣り人が何かを釣り上げて、周りも楽しそうに騒いでいる。彼女はその風景を見つめたままで話し始めた。

 「お父さん、再婚したの」
 「えっ、そうなんだ。いつ?」
 「二年前。若い人で私にもとても優しくしてくれよるから、新しいお母さんも大好き。」
 「ふぅん、そっか」
 思いの外酷く気のない返事。こういう時、どう返事をしたらいいんだろうか。
 「でもこの前、お腹に赤ちゃんができたって分かったの」
 「良かったじゃない。兄弟ができるんよねぇ」
 彼女は首を横に振った。
 「何かね、もしかしたらそこにおったらいけんのかな、って思っちゃった」
 「なんで?」
 「邪魔したらいけんのかな、って」
 いわゆる連れ子だったら、気にするのも当然なのだろう。増してやこれ位の年端の女の子なら、尚更そうなのかも。

 「で、ここに来たって訳?」
 「そう。お母さん、私のことどう思っているんかなって知りとうなって。でも二人とも全然会話できなくって」
 釣竿の先と戯れいつまでもはしゃいでいるいい大人を、僕たちはずっと眺めていた。
 「九年は長いからね」
 「五歳のままで私の中のお母さんは止まったまま……取り戻せんのかな、その時間」
 釣り人の喧騒が収まった頃に、眩しかった太陽が雲に隠れてようやく涼しくなった。

 すると僕のユニフォームのポケットに入れていたあの黒い石が、何故か熱くなった。
 そうか。僕は思いのままに彼女に語りかけた。
 「ねぇ。今度いつ宇部に来れる?」

 「そこは立ち入りにくいわぁ」
 陽治は慎重だった。親子のデリケートな話な上に、思春期の少女の心は繊細だからだと。
 「ねぇ幸。女の子の気持ちってどうなん?親子の問題に他人が関わって、感じ悪ぅないんかな」
 夜警のサイレンが鳴る午後九時前。瓶ビールと熱々の惣菜をお盆に載せて幸が現れた。
 「あんまりいい気持ちじゃないかねぇ。でも、今度来るってもう約束したんでしょ」
 「そう。日曜日のお昼」
 「あとは響子さんがどう思うかよねぇ」
 三人の結論は深く詮索しないこと。僕の作戦はさりげないものにすること。大丈夫。今回はすぐにアイデアが浮かんだんだ。後は響子さんを説得するだけだ。
 「あ、何これ美味しい!」
 「アスパラガスをメンチカツに入れてみたんよ。食感が変わっていていいでしょ」
 本当に幸のアイデアには脱帽だ。僕がお嫁さんに欲しかった……いや、十七の時に見事に振られたんだった。

 「このラップの芯、もらえん?」
 「まだ大分残っとるよ。アルミホイルならもう少しで…」
 母が言い終わる前に、僕はアルミホイルを腕にグルグル巻きにして芯を取り出した。母はおでこに手をあてて呆れ返った。
 「そうじゃ。このアルミも使えるわ……」

 日曜日の午後二時半過ぎ。宇部線の電車が琴芝駅に到着した。愛ちゃんは赤い傘を持って改札を出てきた。
 「やあ。雨で大変じゃったね」
 「ううん。下関はまだ降っとらんかったし大丈夫じゃった」
 僕は胸が騒いだ。リュックの中の黒い石が、何かざわめいているように感じた。
 愛ちゃんには何も伝えていない。彼女はずっと下を向いていた。霧雨の中を五分程度歩くと、二人はアーケードに入って傘を閉じた。

 「よぉ、いらっしゃい」
 陽治がカウンター席に座っていた。響子さんの表情は少し硬いように見えた。
 響子さんには、愛ちゃんが今日やって来るとだけ伝えている。僕は愛ちゃんを手招きして、お店の中へ呼び入れた。
 響子さんはこの前と同じように黙ったままで、愛ちゃんの目の前のカウンターにオレンジジュースを置いた。愛ちゃんは栓を抜き、小さなコップにジュースを注いだ。

 僕は大きく深呼吸して、リュックの中から筒状のものを取り出した。
 「じゃーん。これ何だ?」
 まずい。みんなキョトンとしている。言い方が軽過ぎた。でもいい。気を取り直そう。
 「人間万華鏡でーす。これでお互いの知らんかったことが見えるようになりまーす」
 そう言って、僕は隣に座った愛ちゃんにその万華鏡を手渡した。

 「ほれ。女将さんもこっちに来て」
 響子さんは渋々カウンターからこちらに出てきた。僕は愛ちゃんの手を取って、万華鏡を彼女の肩の高さくらいに持ち上げた。
 「両側にレンズがあるじゃろ。お互いにこれを覗き合うだけ」
 愛ちゃんは少し躊躇したが、すぐにレンズを覗き込んだ。響子さんもまた、少し間を開けて反対側から覗き込んだ。

 「ん、何?何にも見えないよ」
 「ええ……あれ、黒い石が見えるわ」
 「ホントだ。これ何?」
 「本当ね。キラキラしていて綺麗だわ……」

 そんなやり取りの後、レンズ越しに二人は目を合わせた。思わず二人は、ふふっと笑ったのだった。
 僕の思惑通りになった。
 僕が黒い石をもらった瞬間の「何これ?」という思いは、同時に目の前の事実を受け入れようとする思いも引き起こした。誰でもきっとそうなる筈だと、僕はその直感を信じた。
 筒の内側にはアルミホイルを貼り付けた。中の石を万華鏡のように反射させるためだ。

 僕の仕事はこれで終わり。つまらない黒い石しか見えない万華鏡は、通い合えない二人の親子の扉を開くことができた。
 僕と陽治はゆきを出た。僕らが関われるのはここまでだから。
 あとはきっと、二人で結論を出すのだろう。一週間前とは違う探り探りの二人の声を背にしながら、僕はいい方向に向かうことを願った。

 「いらっしゃい!今日も暑かったじゃろ」
 真夏の大衆割烹ゆきは、いつも以上に混雑する。駅前のチェーン店などとても敵わない。僕と陽治は周りを見回して席を探した。
 「こちらにどうぞ!」
 「あれ、愛ちゃん?なんでここに?」
 「夏休みになったけぇ、お母さんのお手伝いに来たんです」
 そう。響子さんと愛ちゃんは夏休みの間だけ一緒に暮らすことにしたのだ。
 これから先も一緒に暮らすのかどうかは、まだ決めていない。だけどお父さんと奥さんは、愛ちゃんの気持ちを大事にしたらいいと快く送ってくれたのだそうだ。
 「エプロン姿、すっごい似合うのぉ」
 「さすがに割烹着は嫌かもって、この前買いに行ったんよ。黒沢さん家の洋品店に」
 愛ちゃんは嬉しそうに一回転して見せた。その笑顔は、響子さんにとても似ていた。
 まだ幼いその表情も、もう少しで大人びて女性の色気が出てくるのだろう……いやいや、変な妄想は、今日は止めておこう。
 「かんぱーい!」
 ジョッキを思いっきりぶつけ合って、二人は一気に生ビールを飲み干した。
 「飲み過ぎんでね。臭いのは嫌いよ」
 はいはい。少女と言えども、女性が男に厳しいのは同じのようである。


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