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[小説 祭りのあと(10)]十一月のこと~嫁入り箪笥(終)~

 初冬の分厚く暗い雲が立ち込める、手もかじかむ日曜日の朝が来た。
 東口から中田君が現れた。上下鉄紺色の作業着に安全靴。素手はポケットになど入れることなく、寒さもものともせずしっかりと腕を振ってこちらへと歩いてきた。
 瑠美ちゃんは三十分以上も前から、寒い外で彼の到着を待っていた。
 その間に善彦さんが何を企んでいるのかを聞いてみた。
 彼女はずっと善彦さんとは話ができていないらしい。鈴恵さんや真一くんにも尋ねてみたものの、誰にもその話をしなかったのだそうだ。
 彼のこういう所も凡人の僕らには全く理解できない所であり、別に理解をしたくもなかった。そういう策略家ぶった思い上がった態度が、とにかく嫌いだ。


 開店時間の一時間前。九時になると石田家具店の奥から物騒な物音がしてきた。
 最初に真一くんが出てきて、店先に養生マットを二枚敷いた。
 その次に出てきたのは、善彦さんと善之さん。
 二人が抱えてきたのは、八段もある年代物の和箪笥だった。
 「おい、あれは無理じゃろ……」
 小田書店の栄吉さんが呟くと、いつもは喧嘩ばかりしている息子の圭吾さんも、その言葉に思わず頷いた。集まってきた商店街の人々もまた、お互いの顔を見合って善彦さんの無茶振りに苦言をこぼした。
 中田君は表情一つ変えることなく、地面に降ろされる和箪笥をしっかりと見つめていた。
 その時、彼の右手が左胸のポケットに当てられるのを、僕は確かに見た。

 「さあ。これを一人で運ぶんじゃ。ゴールは西口。誰の手も借りないこと。いいな」
 瑠美ちゃんは何も言わず、中田君の傍に近寄って、左手をそっと握った。
 強く、力の限りに強く、彼に力を少しでも与えられるように強く握った。
 彼はその思いをしっかりと受け取り、善彦さんのほうを向いて言った。
 「軍手は使ってもいいんですか」
 「ああ。それくらいはいいとしよう」
 たった八ヶ月弱の硝子職人歴だが、彼の背中には先輩から受け継ぎつつある仕事へのプライドが滲んで見えた。
 その姿に、もしかしたらと、僕たちは思えた。

 「よし」
 右ポケットから取り出した軍手をはめて、彼は箪笥を斜めに傾けた。右手を下に掛け、両手で持ち直した。
 両腕だけでは到底持ち上がらない。そう判断した彼は一旦箪笥を降ろし、裏側を確認した。簡単には突き破れない材質だと分かると、彼は裏側を背にして箪笥を背負うことに決めた。
 背中合わせで持ち上げるのにも、相当の力が要った。力の限りに踏ん張る中田君の顔がみるみるうちに赤くなった。その力は古箪笥を見事に地面から浮かせることができた。
 僕の背後から一瞬歓声が挙がったが、これはまだ序章なのだ。西口までは百二十メートルくらいある。ここからどうやって彼は歩みを進めるのだろうか。

 確実に彼は一歩一歩進んでいった。
 時々箪笥の持ち手を直しながらも、まさに亀の歩みで。一歩一歩、着実に。
 「大丈夫。瑠美は離れてて」
 心配そうに彼の横に付いてきた瑠美ちゃんを気に掛けて、中田君は空元気を精一杯出してそう言った。
 しかし言葉を発することが、彼のエネルギーを確実に奪った。
 家具店から五十メートルくらいだろうか。彼の右膝がガクッと落ち、大きくふら付いた。
 「うぐっ……」
 あと数センチの所で、箪笥の角は空中に残った。
 藤井茶店の雅俊さんが箪笥を押さえようとした瞬間も、中田君は首を横に振った。
 重みで箪笥が左右に揺れ始める。判定役の善彦さんは一切表情を変えない。
 しかしいつの間にか、応援の拍手が彼を囲んでいた。

 「あれ?なんでまたこんなとこに?」
 背後に気配を薄々感じていた頑強な体格の人は、昔からのお客様である石川さんだった。
 「いやぁ、ウチの若いもんが大丈夫かなと思ってね……」
 石川さんは硝子工場の製造部長だったのだ。
 中田君は彼の部下で、面接で彼を推したのも石川さんだったようだ。
 「あの見た目やけぇ、どうしてもチャラチャラしとると見られるんじゃけど、ここ数年の新入りで一番見込みがあるんよ。真面目だし手も抜かんしな。俺の見立ては間違っとらんかった」
 彼は確かに、居場所を見つけたのだ。
 「ただ、周りが心配するくらい、なんでってくらいに、毎日全力でやりよるんよ……そうか…そうじゃったんか……」
 初めて手にした自分の居場所を、彼は必死で守ろうとしていたのだ。
 そうすることしか彼にはできなかった。

 あと四十メートル。あと三十メートル。男たちの声が響く。
 頑張って。無理しないで。女たちの声が響く。
 額からも首筋からも、脂汗が流れ続けた。引戸や引き出しがカタカタと鳴る。
 両脚が明らかに震えてきた。一歩進んでは止まり、止まっては一歩進む。
 そしてあと二十五メートル辺りで、決定的な出来事が起こった。
 左のつま先を歩道の窪みにひっかけて、箪笥を背負ったままの中田君は前につんのめってしまった。
 僕たちは思わず声を上げ、女性たちは手で目を押さえた。

 「あっ!」
 陽治が指差して声を上げた。
 箪笥から手を離さずに両膝を付いた中田君の向こう側で、真一くんが箪笥の上部を支えていた。転倒する寸前にとっさに駆け寄ったのだった。
 当然真一くんの力では持ち上がらない。それを見た鈴恵さんは彼らに駆け寄り、真一くんと二人で傾いた箪笥をせーのと持ち上げるのだった。
 箪笥と歩道の隙間から、中田君の悔しそうに歯を食い縛る顔が見えた。
 もう駄目だと思ってしまったのだろう。

 「まだ終わっとらん!運ぶのは一人じゃけど支えるのは一人だとは言っとらん!」
 真一くんは中田君に大声で叫んだ。
 その声に大人たちは反応した。一人、また一人と箪笥のほうへ駆け寄った。
 今にも倒れそうな箪笥の上を、右を左をみんなで支えて、一人で戦う彼が立ち上がるのをひたすら待った。
 瑠美ちゃんは耐えられずに顔を覆った。
 「あいつ……」
 さすがの善彦さんもその光景には動揺したようだ。
 まさか自分の息子がそこまでするとは。
 妻が、商店街の人々がそこまでするとは、全く予想だにしていなかったのだ。

 何分経っただろうか。
 中田君は残りの力を振り絞り、立ち上がった。
 誰もが固唾を飲んでその姿を見守った。作業服は大量の汗で濃く色が変わっていた。腕も脚ももピクピクと震えが止まらない。
 それでも彼は膝を曲げて力を入れ直し、手を持ちかえて脚を真っ直ぐにした。
 その瞬間、重い箪笥は彼の背中の上で跳ねた。それを合図に誰もが箪笥から手を離した。
 再び彼は孤独な戦いを始めたのだった。
 真一くんはスタート地点まで駆け出した。僕もまた彼と共に駆け出し、二人で養生マットを西口まで運んだ。

 「善彦。分かるか。これが人間よ。人間は一人で立ち向かわんといかん。じゃが決して一人じゃない。理解する者がおって、支える者がおって、初めて一人で前に進むことができる。お前もそうじゃったんじゃないんか」
 善彦さんの隣で、これまで一切口を開かなかった善之さんが語り出した。
 「お前は彼を、彼の思いや境遇を理解しようとしたか?そうしとったらこんな拷問のようなことはさせんじゃろうな。あんな酷いことは言わんかったじゃろうな」
 父親に窘められる中で、この光景は善彦さんにどう映ったのだろう。
 「お前は一体、何様のつもりじゃ?お前は何処まで彼を、瑠美を苦しめるつもりなんよ?」
 善彦さんは、顔を覆って俯いたままの瑠美ちゃんの方を振り返った。
 「いつかは気付くかと思っとったが、ここまでなっちょらん奴じゃとは……どうもワシのやり方が間違っとったんじゃのぅ」
 親として子供のためにしたつもりのことが、ただの独りよがりの行動になっていたことを、ようやく知ったのだ。
 しかしもう、手遅れだった。

 「ほら、あと五メートル!」
 いつ倒れ掛かってもいいように、大勢の人が彼の周りを取り囲んでいた。
 息はもう絶え絶えだ。
 彼の通った道程には、汗の跡が鮮明に残っていた。
 膝を付いた時に破れたズボンからは血が滲んでいる。
 先程の躓きで安全靴のつま先には大きな傷が付き、鉄板が顔を覗かせていた。
 その重い靴を引き摺りながら、目の前に広がる太陽の光に照らされた養生マットを、彼はただひたすらに目指した。
 あと三メートル、二メートル。あと一メートル、もう少し……

 そして、中田君はやり切った。
 養生マットを乗り越えて、傷が付かないようにそっと背中の和箪笥をマットの上に置いた。
 そこから先のことは、彼の記憶にあるだろうか。
 立ったまま首をもたげて、真っ赤だった顔から大粒の汗を滴らせたその直後のことだ。
 一瞬顔を上に向けてうっすらと笑顔を見せたと思った瞬間、彼は膝から崩れ落ちて、意識を失ってしまった。
 祝福の歓声を挙げていた僕たちは一瞬にして黙り込んだ。
 皆が駆け寄った。彼の顔は急速に蒼ざめ、息をすることさえやっとの状態だった。
 全身が細かく痙攣し始めた時、彼を抱えた鈴屋呉服店の昭次さんが、大きく声を上げた。
 「救急車じゃ!誰か早う!」

 五分もかからないうちに、救急車が到着した。
 担架で運ばれる中田君の手を握った瑠美ちゃんと鈴恵さんが一緒に乗り込み、救急車はサイレンを鳴らし始めて出発した。
 真一くんは善彦さんの許にゆっくりと歩み寄り、無言で睨みながら血だらけとなった一双の軍手を見せた。
 善之さんは善彦さんの背中を一つ叩き、幼い子供に言い聞かせるように呟いた。
 「お前も行くべきじゃなーんか」
 善彦さんは素直に頷き、真一くんと共に駐車場の方へと向かった。
 僕たちはその姿を目で追った後に、西口に取り残された和箪笥を静かに見つめていた。
 裏側が汗で変色した、角に赤い指の跡が無数に付いていた箪笥は、間違いなく愛する人を全力で守ろうとした者が、命懸けで運び切った婚礼箪笥だった。
 そしてアーケードの天井から、BGMが流れ始めた。
 十時開店。誰もが自分の店に足早に戻っていった。箪笥には、かおるがいつの間にか持ってきたブルーシートが被された。
 いつもの一日が、また始まる。


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