暇と退屈と寂しさの倫理学~ひまりんの要約と考察

「暇と退屈の倫理学」著 國分功一郎 について要約と考察です。

「幸福とは何か」という普遍的な問いについて、「退屈」をキーワードに分析していく大変面白い本です。

■要約

1.最近ここんとこ、豊かに生きている人が少なすぎ。
 モノを豊かに「浪費」するんじゃなくて観念や意味をひたすら「消費」させられているだけ。個人は「好きなこと」を選び取っているのではなく、広告によって欲望が生まれており宣伝文句にあおられて要らないものを買わされている。消費者は「余暇」(時間的余裕と金銭的余裕)を自ら選びとって有効活用しているというよりも、企業の食い物にされているに過ぎない。

2.豊かってのはいったんおいといて、そもそも幸福に生きるとはなにか?
 パスカルの思想を踏まえると、人生で幸福を与えてくれるものは「気晴らし」だけ。人は常に「不幸な状態から自分たちの思いをそらし、気を紛らさせてくれる騒ぎ」を欲している。自分をだましてくれるものなら何でもいい。それは熱中できるものであり、広い意味での苦しみを与えてくれるもの。

3.じゃあなんで幸福に生きられないの?
 それはもう現代人は定住をはじめたせいで「退屈」から逃れられないから。
 んで、ハイデッガーとかの思想を踏まえると、「退屈」には3つの形式があって
 「決断することで仕事の奴隷になったから(=その1)、
  もしくは奴隷になれるって可能性に思い当った(=その3)」と
 「気晴らしそのものが退屈(=その2)」。
 現代人は「気晴らし」で退屈を紛らわそうとしてるんだけど、その1→その2→その3→1に戻るってループを繰り返してる。

4.で、幸福に生きて、その上豊かになるにはどうすりゃいいの?
 とりあえずその1とその3の状態は、あんまりよろしくない。その2の状態を生きるってことが、人間らしく生きるってこと。あと「気晴らし」が広い意味での苦しみを与えてくれるものだからといって不幸とか愚劣な社会を望んじゃダメ。その2の状態を、退屈から逃れるのは無理だけど、なるべく贅沢に楽しむべし。

5.贅沢に楽しむって、具体的には?
 人間は「環世界」(認識できる世界)を複数持っていて自由に切り替えられるのが動物との決定的な違い。勉強することや、ふいにショッキングな事件に遭遇したり、新しい思考に出会ったりすることで「環世界」は増えていき、それ故に退屈が生まれる。でもそれは人間らしく生きることと表裏一体。だから受け取ること(=「環世界」を増やすこと)を能動的に楽しむしかない。楽しみながら学び、動物になることを待ち構える(=「気晴らし」に没頭する準備を常に整えておく)こと。

以上です。知的好奇心を大いに刺激され、また、人生論について深く考えさせられる素晴らしい本でした。

書いてあることにはおおむね納得です!ただ、一つだけ違和感が残る部分があり、それについて考えていたら、とても長い批評になってしまいました。

「退屈」の正体とその対処法、については十分に書いてあると思いましたが、その本質についてはまだ踏み込み切れていない印象を受け、自分なりに「退屈」を解釈した上で、それが自分の持っている価値観や認識している後期近代の姿とどのように重なるかということについて論じました。

では、スタートです。

■1.退屈は不幸のどこまでをカバーできるのか

 幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はそれぞれに不幸である、というのはアンナ・カレーニナの一節だが、本書では「不幸」と「退屈」が完全にイコールだと書かれているような気がして腑に落ちなかった。

 人生論ぜんたいについて思いを巡らすのに「退屈」という感覚を軸にするのは確かに有効であるが、それだけでは不十分だと感じる。つまり仕事や現在の生活のことなど、短期的な領域、つまり「生きること」に対しては幅広く適用することができても恋愛や自己実現といった長期的な領域、「生きていくこと」については「退屈」はカバーできないのではないか。
 
 人間の環世界には一八分の一秒より短い時間は存在しない。そしてこの認識できる時間、という要素は環世界を定義する重要な要素である。
 (「暇と退屈の倫理学 第六章より)
 
 認識できる最小の時間、はベタという魚が三十分の一秒、カタツムリが四秒に一秒であるとのこと。どれにしても、相当短い時間だ。 (短い、と感じる自分が人間であることを差し引いても、やはり短いのではなかろうか)

 仏教には「刹那」という概念がある。それはずばり「時間の最小単位」のことを指す。一説には七五分の一秒だと言われているが、昔の人が自然科学を用いずにたどり着いた数字がとにかくそれくらいだったのだろう。

 かつて時間や宇宙といった概念は、自然科学ではなく宗教によって規定されるものだったからこの「刹那」と、自然科学によって明らかになった「認識できる最少の時間」は、人間が人間のことを考える限りは、同一とみなしてもいいのかもしれない。

 何が言いたいのかというと、「退屈」は実際的な気分としては、そう長い間持続するものではない。毎日仕事や学校に行って、大きな悩みを抱えていない人間なら一日の間で数回、それぞれ数秒から長くて数分程度の気分に過ぎないのではないか。中には長く感じる人間もいるだろうが、パスカルが言うように「気晴らし」さえすれば一旦は収まるものだ。また、それでも「退屈」は繰り返し繰り返しよみがえってくるものだが、ハイデッガーが言うように「退屈」には三つの形態があって、それは往々にして1→2→3→1とループする。つまり「退屈」は、まったく同じものがえんえん続くような性格のものではない。

 「退屈」が環世界の強い影響下にあり、また環世界が「刹那」の影響下にあるならば、それは上記を裏付ける根拠になり得るのではないか。つまり「退屈」という感覚は刹那的なものなのである。

 では「退屈」を補完するのは何か。それは「寂しさ」だと思う。

■2.退屈と寂しさは区別可能か

 「退屈」の一形態として「寂しさ」があるということもできるだろう。パスカルは、不幸の原因はすべて「退屈」にあるといい、國分さんもそれに対して不足は感じていないようだ。本の中に「寂しさ」という言葉は出てこない。

 私はどうしてもその点に、違和感が残る。衣食住足りて不幸になる、というのはもはや不自然でも何でもない時代である。日本では毎年毎年、交通事故の死者の三倍自殺者が出ている。しかし、愛や名誉といったものを備えた上での不幸と、愛や名誉不在の不幸は、果たして完全に同じものなのだろうか?

 この違和感をなんとか解消してみるべく、「退屈」と「寂しさ」の違いについて、自分なりに定義してみようと思う。これらはよく似ていて、しかしどこかしら決定的な違いがあるような気がする。

 独房にいる囚人は、「退屈」と「寂しさ」のどちらを感じるだろうか。それは両方であり、当人にとって区別をつけることは難しいような気がする。戦争などの極限状態にいる者であればどうだろうか。それは、どちらも感じないような気がする。「退屈」は何かに熱中しているときは感じないが、完全になくなるわけではないというのがハイデッガーの主張だが、その点では「寂しさ」も同じだ。

 「寂しさ」とは広辞苑によれば、「欲しい対象が欠けていて物足りない、満たされない」感覚だという。欲しい対象というのは友人や恋人といった誰か、あるいは仕事の結果や名声といったものが一般的だろう。うたかたのように現れては消える「退屈」とは違って、長期間に渡って沈殿し続けるものという印象がある。そしていったん解消された「寂しさ」を再度打ち砕くのは、「退屈」ほど簡単ではないだろう。

 あるいは、「退屈」と「寂しさ」が結果的によく似ていることに注目して、少し乱暴かもしれないが、いったんそれらを同じものとみなし、実際的な効用によって分けて考えてみてもいいかもしれない。

 ・退屈=刹那的な不安/不幸=任意の手段(気晴らし)で解消可能。
 ・寂しさ=長期的な不安/不幸=特定の手段(欲しい対象の獲得)で解消可能。

 注目すべきは、自分をだましてくれるものなら何でもいい「退屈」に対して、「寂しさ」を解消するには、特定の何かでなければならないのである。「退屈」の根本的な原因は、定住開始による生活形式の変化に見いだせるが、それが表出するようになった直接的な原因は近代化、すなわち資本主義と工業化である。

 かたや「寂しさ」はどうであろうか。その根本的な原因はたかだか一万年前に起こった定住よりはるかにさかのぼって、生命が細胞核を持つようになった二十億年前に見出すことができる。まだ狩猟採集を続けていた頃のヒトが寂しさを感じていたかどうかは分からないが、
 集団を形成しなければ生存し子孫を残すことができないヒトは、きっと本能と呼んでもいい位の根源的な感覚として「寂しさ」をもっていたのではないだろうか。
 
 ここで本能、という概念を用いることは避けたほうがいいように思われる。本論の出発点に「暇と退屈の倫理学」という本がある以上、その領域からあまりに逸脱するのは好ましくない。

ただ、「退屈」は人間が人間として生きる以上必然としてついてまわる感覚である以上「人間として生きる」という新しい価値観を基盤としている。そこに「退屈」の限界があるのではないだろうか。

■3.供給と需要の逆転の先に何があるのか

 「退屈」と「寂しさ」を明確に区別する試みは、残念ながらどうもあまりうまくいかなかった。だが「寂しさ」が「退屈」に含まれるものだという説には一石を投じられたのではないかと思う。

 繰り返しになるが、これらはよく似ている。「退屈」が「寂しさ」に付随することもあれば「寂しさ」が「退屈」に付随することもあるだろう。だが、私はあえてこう主張したい。「寂しさ」が「退屈」に含まれる社会は決してよい社会ではない、と。不幸から逃れることはできないにしても、愛や名誉を備えた上の不幸と愛や名誉不在の不幸を区別しないのは、愚劣ではないか。

 「退屈」は自分を騙してくれるものならば、何でも解消することができる。現代人は、あらゆるモノ・サービスを用いてこれに対処することができるだろう。「退屈」を打ち消すのは交換可能な欲望なのだ。しかし「寂しさ」は交換可能な欲望ではない。誰かと一緒にいたい、という思いはどんなモノ・サービスもその代わりにはならない。モノ・サービスによって「寂しさ」を解消しようとしても「寂しさ」に付随する「退屈」を打ち消すことしかできない。

 「退屈」を解消する唯一の方法「気晴らし」が、自分を騙してくれるものなら何でもいいという主張には納得できる。しかし、後期近代が成熟を迎え、あらゆるモノやサービスが貨幣と交換可能となるグローバリズムに市場原理が侵されてしまった現代では、「退屈」を幅広く解釈することに大きな危険が付いて回るのではないか。

 具体的には、もし「寂しさ」が「退屈」の一形態にすぎないというのであれば、かけがえのない存在、だとか曲げられない信念、といったものは社会全体というスケールでも、個人一人一人といったスケールでも、どこを探しても跡形もなくなってしまうのではないか、ということである。

 「暇と退屈の論理学」で初めに語られるのは、需要と供給の関係性がすでに崩れているということだ。企業が顧客の需要に合わせてモノやサービスをつくるのではなく、顧客が企業の都合に合わせて需要をつくりだすという構造はすでに完成しきっている。

 だが、社会の隅々まで、その構造が行きわたっているというわけではない。消費ではない、オリジナルの趣味や確固たる信念に基づいた浪費はまだ確実に行われていて、そういった顧客をターゲットとした供給もまったくないわけではない。

 「退屈」とは需要だと言い換えることもできる。それがグローバル市場原理に支配されきったとき、大げさに、いささか感情的にいえば「人間らしさ」は残っても「人間の尊厳」が失われることにつながるのではないだろうか。そうして残ったものが「食べることを楽しむことを訓練すること」(「暇と退屈の論理学」終章)では、人間性を前提とした動物化も、ただの動物も、大した違いはないように思われる。

■4.退屈と寂しさの倫理学

 だからこそ「暇と退屈の論理学」終章では、贅沢な浪費が大切だ、と釘を打ってあるのかもしれない。私が指摘したいのは、そうはいっても、「退屈」の本質を慎重かつ柔軟に分析することを続けなければ浪費そのものが危うくなってしまうのではないかということである。 

 私も「退屈」は大嫌いである。「自分の仕事」だと信じていることをするために、時間や金銭を日々節約して、自分なりに懸命に努力している。だから時間はあっても暇があることにはならない。

 「寂しさ」も大嫌いである。仕事上の実績は欲しいし、かけがえのない相手とは常に何らかの形でつながりを求め、相手のために自分ができることがあればしたいし、それによって不確か極まりない自分の存在を確認したい。

 暇がないから「退屈」でもなく、完全に不幸は克服できないにしても衣食住足りて「自分の仕事」ができている状態はまだハイデッガーの言う「仕事の奴隷」を脱してはいないだろう。しかし現代の日本では「大変そうだが立派にやっている」と評価してもらえる。そして教育制度やセーフティネットを利用すれば、多少問題を抱えている国民でもこの程度の水準までは達することができると思われる。これは決して悪い社会ではない。

 少し余裕があってたまに「気晴らし」ができれば加えて「充実した生活」という評価ももらえる。なおかつ「気晴らし」や「気晴らしについてまわる退屈」を積極的に楽しむことができれば「充実した人間らしい生活」にランクアップする。さらに、贅沢にモノを浪費することができれば「豊かさ」を手に入れることができるだろう。

 それは確かにいいことだろう。しかし「暇と退屈の倫理学」が提示している結論は、それ以上でもなければそれ以下でもない。このような状態まで達することは、現代の日本では望みさえすればそう難しくない気がする。

 「絶望の国の幸福な若者たち」は、少ないコストと狭い人間関係の中で、かつてのどの世代と比べてもはるかに「豊かに幸福に暮らす」若者たちの存在を浮き彫りにした。「ムラムラする若者」と表現されていたが、欲しいものの対象を「ここではないどこか」ではなく「今、ここ」に巧妙に置き換えることで小さな、しかし当人にとっては最大限の幸福を享受するということは、現代日本においてそんなに珍しいことではないのである。

 それは決して悪い社会ではない。確かにいいことだろう。だが、「今、ここ」への巧妙な置き換えは、グローバリズムに侵された市場原理を前提として、もはや欲望の質が交換不可能ではなくなった人間にのみ成せる業ではないだろうか。 そこでは「退屈」の原理は変わらずに残っているとしても、「寂しさ」の原理は大きく変わっているのではないかと思うのである。つまり、欲しいものの対象が交換可能=どこにでもあってどこにもないが故に、そもそも「寂しさ」が発生しないのである。
 
 暇がないから「退屈」でもなく、完全に不幸は克服できないにしても衣食住足りて「自分の仕事」ができているからといって「寂しさ」に目を背けることのできる社会は受け入れ難い。それは、自分がなるべく「かけがえのない誰か」として他者に関わりたいからだ。

 そこには、一人でも多く、いや、たった一人でもいいから自分のことを本当に分かってほしいという甘えも含まれている。

 その程度には強く、その程度には弱くありたい。以上が、「暇と退屈の倫理学」に感銘を受け、また触発されて明らかになった、私の倫理観である。


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