ドラァグクイーン/「キンキーブーツ」を見て、僕とは違う嗜好(指向)の人を考える

先日、舞台「キンキーブーツ」を見た。三浦春馬と小池徹平(以下、敬称略)のダブル主演である。小池徹平は親から町の靴屋を受け継いだが経営は傾いていた。隙間産業を狙うべきだという従業員の声に、たまたま出会ったドラァグクイーンのスターである三浦春馬の姿を見て、男性の体格に合わせた「女性用ブーツ」を作ろうと決心する。

…というのが本作のあらすじで、これを見て感じた疑問点はいくつかある。

一つ目はネタバレになるので背景色を変えてかく。二つ目はドラァグクイーンを演じることについて。三つ目は「ドラァグクイーンのような人々」についてだ。

とりあえず以下背景色を変えた部分は微ネタバレ注意である。二つ目の議題からは白地に戻す。

三浦春馬演じるドラァグクイーンのスターは、父親がボクサー。父親に言われるがままボクシングの練習をしたが、いわゆる「男らしさ」は彼に合わない。父親の期待に応えたかったものの彼は女性をリスペクトして生きることを決めた。自分自身を理解してくれない小池鉄平演じる靴屋と仲違いしてしまうが、彼の思いと必死の謝罪に応え、小池徹平のピンチに颯爽と現れる…というシーン。靴屋はドラァグクイーンのことを「誰よりも男らしい」と評し、フォーマルな場で女性向けの服を着るなと注意したことを恥じた。
これは果たして、現代的な解決として受け入れて良いのだろうか。ドラァグクイーンは父の「男らしさ」を受け入れられなかったことを後悔したものの、男らしくありたかったわけではない。かといって「女性をリスペクトしている」といっただけで女性になりたいと発言してもいない。そんな物語のクライマックスたるセリフが、「誰よりも男らしかった」であることに疑問を感じた。例えば、「尊敬に値する人間」「男らしさも女性らしさなんて陳腐な表現だ」というようなニュアンスであれば受け入れられただろう。
原作は2005年と少し前であるし、日本で上演するにあたってどれほどの脚色がなされたのは原作を見ていないのでわからない。これはジェンダーの問題を抜きにしても脚本の落とし所として問題だ。しかしこれは逆にジェンダー問題について議論のなかった時代に、そういった人に光を当て多くの人に存在を知らしめつつ一つの生き方として示した所に意義があるのだろう。





二つ目は、「ドラァグクイーンを演じることについて」である。たしかに三浦春馬はテレビで見るような爽やかな青年とは大きく違い、見事に演じきったと思われる。しかしソロパートの多さ、彼への演出の派手さを考慮しても、「ドラァグクイーン」は演じやすく印象に残りやすいキャラクターではないか。

現在、マツコ・デラックスをはじめとしていわゆる「オネエタレント」が増えた。なぜか彼らはしがらみにとらわれず発言ができたり、真理をついていたりする(ことを期待されている)のが多い。それに、体の男らしさのために派手なメイクになることが多い。劇中でも触れられたが、女性をリスペクトしているという「ドラァグクイーンらしさ」があるのだ。特に「ドラァグクイーン」と銘打ってしまうと、パフォーマンスである面が一層強調される。するとやはり、テレビでよく目にする「体の性を超えた人々」の演技が求められる。仮に男性として生まれ「体の性を超えた人々」が全員物静かで他人に意見するような性格でなかったら、この演技は過剰で滑稽に、あるいは的外れに見えるだろう。これはそれぞれのキャラクター全てに当てはまるが、(例えば、男性の老人がいわゆる『〜じゃ』と話すなど)外見に期待されるキャラクターから外れようとする人々を演ずるには、より構造が複雑化する。

だからこそ、三浦春馬の演技、その脚本、演出は手放しで喜んでいいものではない。これに対する明確な答えもないが今の所は「慎重に、意図を持って」という柱があるべきだ。

第三の問題は、「ドラァグクイーンのような人々」についてだ。現在は古田新太主演で「俺のスカート、どこいった?」、少し前なら佐藤隆太主演で「弟の夫」が放映されたが、前者は監修やキャラクターに女装パフォーマーやゲイ当事者が関わり、後者はゲイ漫画を書き続けた実績のある漫画家の作品が原作だ。監修に当事者が関わるのは珍しくもないが、脚本家がそういった題材について監修なしには書けない、というのは一つの問題であるだろう。

前者について言及すれば、上述のいわゆる「オネエタレント」な味付けがされ、保守的な学校を主人公なりの斬新な解決をしていく。本来であれば(現在取り沙汰されがちな)特定の属性の人間を悪役として描くことも許されるべきである。ポリティカルコレクトに配慮するあまり、ゲイがトークスキルのあり革新的な物言いができる人間としてしか(ポジティブに?)描かれないのは彼らの理解を妨げることになる。もっとも、僕はお互いのセクシュアリティや嗜好に干渉をしなくても良いと思っているが。

とにかく、ゲイにも”オネエタレント”風ではない人もいるし、ゲイでなくてもオネエタレントに憧れても良い。ドラァグクイーンのように華々しく生きている人は一握りである。世間が「第三の性」などに注目している現在、どんなに業界を擁護しても『慎重に描くこと=ポジティブに捉えること』ではいけない。悲しいことだが、それが平気になるのは無意識にLGBTという語を使わずに済むようになってからである。ましてや社会的圧力を超えた同性愛こそ本当の愛、などとヘテロセクシュアルと優劣を争うべきではない。もう「LGBT」の認知度を高める時代は終わった。そのような啓蒙を目論むのであれば、もっと多様な人間性について描写するべきであるし、むしろ個人の属性をカテゴライズする途方のなさに気づかせるような作劇が必要であると思う。


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