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空海というネーミングセンスは異常。

日本史に出てくる仏教の人たちの中でも「空海」は色々な意味で異端だと思う。

当時の文化をぶち壊すようなものを海外から持ち込んで、新しい概念を提供した実績を持つ人だけど(みんなそうか)、とりわけ「空海」というネーミングセンスが異常。

だっておかしい。

日本史に出てくる仏教系の人たちといえば、行基、鑑真、円仁、円珍、法然、親鸞、日蓮、西行とか、いやこれだけではないのだけども、その中でも「空海」のキャッチーさは異常である。空海だ。クーカイ。わかりやすくね?

どどん!


このネーミングの由来は、彼が洞窟の中かどこかで悟り的なのを開いたとき、そこから見えたのは「空」と「海」だけだったからだそうな。嘘かほんとかわからない。

ひらめいて「よし、空海でいこう」と思えるセンス。よほど自分に自信がないとつけられない。

誰か止める人はいなかったのか?

空海「ちょっとおれ悟っちゃったぽいからさ、これからは『空海』でいこうと思うんだよね。空と海で空海」

周りの人「いやいや、いくらなんでも『空』と『海』で空海は大きく出過ぎじゃないすか?」

そういや同時代に活躍した最澄のネーミングセンスもなかなかの自信に溢れている。なんせ「最も澄んでいる」で最澄だ。


最澄が直接的なネーミングなのに対し、一方の空海は暗喩を使っている。悟ってる感を空と海の概念にたとえているわけだ。このあたりも自信とセンスに溢れている。


さらに特筆すべきは普遍的な概念をチョイスしているという点。だって空と海の概念は現代でも変わっていないじゃないか。空は空だし海は海。

このなんともいえないなぎ感。

めちゃめちゃ悟ってる。怖いもんなし。


空海は今から1200年くらい前の人だけど、そのころからすでに空はデカく高く、海は広く深いもので、空×海=無限×無限である。


これは悟ってるわ。


空と海という言葉を今でも当たり前に使うけど、1200年の時を超えてもいまだにその概念が変わっていないというところ、それを予想してかせずか「空」と「海」をチョイスしちゃうあたりに彼のロマンというかセンスというか不可思議さを感じる。



まだある。

空海=弘法大師であるわけだが、その名前は当時の天皇からもらった名前であったはずだ。まずもって問いたい。

天皇から名前をもらうって、どういうこと?

「お前、これから弘法大師な」ってな具合で決まった名前。空海はどう思ったのだろう。

弘法大師といえば、現代のことわざにも残っている。弘法にも筆の誤り、弘法筆を選ばず。このことわざに関する逸話は何個かあるが、ぜひ調べてみてほしい。空海はセンスで筆をぶん投げるから。


いったいどうしたら1200年後もことわざに個人名が使われるようになるのだろう。普通に考えておかしい。個人名が使われることわざは日本においてそうあるものではない。

釈迦に説法、弁慶の泣き所、元の木阿弥。

個人名が今でも使われるのはこのあたりか。

日本史を散々かき回した僧侶たち、もっかい書くと、行基、鑑真、円仁、円珍、法然、親鸞、日蓮、西行あたりは「一切」ことわざになっていない。


空海、たぶんレベチだったんだと思う。

〈あとがき〉
林太郎くんと仏教の話をしていたとき「空海はどうなの?」と聞くと「あ〜空海はまた特殊ですからねぇ」と言ってました。しかも空海、設定上はいまだに生きています。すごい自信だ。いつでも自信のある人の方が支持されるんですかね。今日も最後までありがとうございました。

【関連】空海はまだ生きているという設定

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