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わたしのはなし:家庭料理と美味しい偏見


わたしが小学3年生の頃、近所の古いアパートに台湾人の家族が引っ越して来た。
かれらは3人家族、わたしより年下の女の子がいて、いつの間にか仲良くなって遊ぶようになっていた。
ツインテールの三つ編み、まんまるしたキラキラの瞳、寒い日にはカラフルな薄手の服を何枚も重着していて可愛かった。
独特の発音でわたしの名を呼ぶその姿が愛らしく、一人っ子だった私に妹が出来たみたいで嬉しかった。

学校が終わると週1〜2回はその子の家に遊びに行き、彼女の母親が振る舞う異国のご飯を、お言葉に甘えてご馳走になった。
覚えているのは、茶碗蒸しの様なあったかくてふかふかの卵料理と、ご両親が分担して手作りする水餃子。目の前で皮を伸ばして餡を詰めていく一連の2人の動作が、とても優しく美しく側で眺めているのが好きだった。
皮から作った出来立ての水餃子は夢のような美味しさで、わたしは水餃子が大好きになった。
帰省のお土産に、山査子(サンザシ)という甘酸っぱい実を加工してコイン状に伸ばしたお菓子をもらった事がある。ヘンなにおいなのだけど、味が美味しくて大好きになった。

台湾人家族は、父親が医師で母親が看護師、研修か何かよく知らないが技術のある方らしく、当時珍しいパソコンもあった。部屋は狭いながらも整頓されていて小綺麗で居心地が良く、2人はおっとりとしていて知的で品があって優しくて大好きだった。
そして、かれらが家族間で話す母国の言葉の音がとても柔らかく美しくいつも聞き惚れていた。
主に低所得の方が住んでいた老朽化した木造アパートの家族の住む部屋に繋がるドアは、猫型ロボットが出してくれる有名なドアのように、日本から小さな台湾へといつでも連れて行ってくれた。

わたしは母の仕事の事情で、母の仕事場で夕飯を食べていたため、幼い頃から父と食卓を囲む経験がほとんど無かった。それゆえ、家族らしいその食卓は理想的な場所だったのかもしれない。本当の父とだったらきっと、楽しい時間にはならなかったと確信できるのが少し悲しい。

少しして、その女の子に同い歳の友達が出来てから、遊ぶ頻度が少なくなってしまった。友達を取られてしまう、と悲しくなった私は束縛したい思いから意地悪をしてしまい、結局疎遠になってしまった。老朽化したアパートは取り壊しが決まってからの、彼らのその後は知らないままだ。

彼女の短い名前と漢字を今でも覚えている。

美味しいご馳走と、ドアを開けた時の独特なお家の匂いと異国の装飾、台所の風景、「いらっしゃい」と笑顔で迎えてくれる彼女のお母さん。

わたしの愛おしい思い出のひとつである。

この思い出のおかげ(?)で、総じて中国の方は“ご飯のレパートリーが多い”や“どんな環境でも美味しいご飯を作れる”という偏見を持っている。


fin

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