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第13話 宇陀の巻① 「国の始まり大和の国 郡の始まり宇陀郡 村の始まり穿邑」

神武東征の旅第13話 宇陀の巻その1

「国の始まり大和やまとの国 こおりの始まり宇陀郡うだごおり 村の始まり穿邑うがちむら
という古誦こしょうがあります。宇陀郡うだこおりは奈良県宇陀市、穿邑うがちむらは現在の宇陀市菟田野宇賀志うたのうかしです。

宇賀志うかしの血原

昔、神武天皇の大和平定の初め、宇陀郡地方では、苦しい思いをして未開の土地を開拓しながら進まれた。すなわち土地をうがって進まれたところを穿邑うがちむらと呼び、それが今の宇賀志村の元となった。それからこの地方には兄猾えうかし弟猾おとうかしという者がおり、弟猾おとうかしは先ず帰順したが、兄猾えうかしはなお反抗し、さらに天皇を誘って落とし穴に落とそうと企てた。天皇はこれを察せられ、その落とし穴を逆用して兄猾えうかしちゅうせられた。その時の血が野原一面をおおったので、その地を血原ちはらと呼んだ。今も血原川があり、血原橋がかかっている

大和の伝説

〝記紀〟を要約したような内容でして、短いのでこちらがわかりやすいかなと思い引用しました。

菟田穿邑うだうかちむら顕彰碑
宇賀神社うがじんじゃ  全国にある宇迦之御魂神うかのみたまのかみを祀る宇賀神社とは違います。
元々は兄猾えうかしを祀っていたようです
血原橋  神社横を流れる血原川に架かる橋
宇賀神社から血原橋を渡り少し進んだ小高い丘に兄猾えうかしが誅された 「大殿」の伝承地があります。。


この時の勝利のうたげで「久目歌くめうた」が歌われました。

宇陀の高城たかきしぎ罠張る(しぎをとるワナを張って)、俺が待っているとしぎはかからず、鷹(或いはクジラ)がかかった。古女房が獲物をくれと言ったら、痩せた蕎麦の 実のないところをやれ、若女房が獲物をくれと言ったら、イチイガシのような 実(ドングリ)の多いのをうんとやれ。


宇菟うだ高城たかき
久米歌にも登場した、皇軍の休息に築いたといわれる、わが国最古の城跡 宇菟の高城伝承地の一つ。

菟田の高城伝承地
八ツ房杉 まるでヤマタノオロチのような迫力がありました。けれど裏へまわるとワイヤーロープで補強されていて痛々しかったです。


『日本書紀』では、このあと吉野巡幸があって再び宇陀に戻り高倉山に陣を敷きます(『古事記』は久米歌が続き、戦闘シーンはありません)。高倉山の伝承地はいくつかありますが、宇陀市大宇陀の高倉山に行ってきました。

高倉山 高角たかつの神社 ご祭神 高角大神(天香語山命あめのかごやままたの名 高倉下たかくらじ) 
頂上までは10分足らずの歩きやすい道です。
聖蹟菟田高倉山顕彰碑
本殿とその隣にある江戸時代寛政十一年(1799)「神武天皇望軍之旧跡」の碑


高倉下たかくらじが登場する熊野の話し↓

 
 国見をすると、八十梟帥やそたける(大勢の屈強な兵)がいて、女坂めさかには女軍めのいくさ(女性軍ではなく男軍との対比。別働隊、遊軍などという意味)、男坂おさか男軍おのいくさ(主力部隊)を置き、墨坂すみさかにはおこし炭をおいて(火をたいて通れなくしている)待ち構えている様子。敵の拠点はみな要害の地で、道を塞がれて通ることができません。

※実際に高倉山から女坂、男坂、墨坂すべてを一望することはできません。見晴らしの良い大宇陀の松山城跡(古城山)を比定する説もありますが、いずれにしても敵の様子をつぶさに確認できるような距離感ではありませんので、高倉山に陣を敷き、国見に出かけた、或いは物見を行かせて報告を受けたと考えるのが自然かも知れません。

地図で伝承地の位置を確認してみましょう。

陣を敷いた高倉山と、墨坂、男坂、女坂伝承地  ◯印は下の写真を撮った位置
宇陀と国中くんなか(奈良盆地)の境 音羽三山おとわさんざん 女坂めさかは熊ヶ岳の南(左)。男坂おさかは音羽山よりかなり北(右)方向
桜井市八井内やいないと宇陀市宮奥をむすぶ大峠おおとおげ(針道はりみち峠) にある女坂めさか伝承地碑
明治時代に女寄みより峠(国道166号)が整備されるまでは、半坂はんさか峠越えが一般的だったそうです。半坂峠の 男坂おさか伝承地碑
墨坂伝承地碑。おこし炭をおいた故事は墨坂の地名の由来でもあります。

 地図を見ていただくとわかりますが、国中くんなか(奈良盆地)に入る三方の道すべてふさがれています。一か所を全力で突破しようすると、敵に背後を突かれる恐れがあります。

さて、あなたならこの状況どう突破しますか?

次回は宇陀その2 丹生の川上の巻です。
お楽しみに〜!


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