真のアイデンティティを目指して

与えられたアイデンティティ…………誰かの子供であることとか、どこかの職に就いていることとか、他人に褒められたこととか、そういった他人に依存するアイデンティティはアイデンティティになりえない。なぜなら、それは他者の動きと変化次第でいかようにも揺らいでしまうからだ。
たとえば、著名人の息子だから偉いんだと奢っていても、実は血が繋がっていないとなれば、そこで終わる。大企業のトップであることがすべてなら、老人ホームに送られた瞬間にすべてを失う。他人に褒められたとて、それが気まぐれや勘違いであればそこまで。

与えられたアイデンティティは結局のところただの偶然でしかない。自分の完全な独力で得ているわけではないからだ。
それに固執して奢ること、あるいは、コンプレックスを抱くことも、健全とは言えない。

互換可能性のあるアイデンティティ…………知識量と技術力の差異と多様性は、それを上回られることと、70億人もいれば誰かが自分と似たようなことをすることによって、機能しない。これに縋る者は必ずなんらかの形で挫折するが、挫折が遅いということは挑戦するのも遅いということなので、寛容になるべき。

このようなアイデンティティは誰でも共有できるということで素晴らしい一方、誰でも共有できるということでアイデンティティになり難い。
しかし、だからこそ研鑽を積んだり個性を発揮したりして唯一に近い存在に近づこうとする。そこに素晴らしい研究や作品が生まれる。


これら2つのアイデンティティは、一部にしか注目していないがゆえに真のアイデンティティになりえない。

また、前者には、与えられた人種や性向に基づく差別を作るとか、国民や軍人といった役割に人が従属させられ戦争に繋がるとか、依存する不満と不安から人間関係のトラブルを作るとか、総じて人を病ませるとかのデメリットがある。
後者には、結局のところ、知識や技術は手段でしかなくて、手段しかもたない人間は利用されるだけで、いずれ与えられたアイデンティティになってしまうというルートがある。

真のアイデンティティの条件は「全体であること」「独力で得るものであること」「高低をつけられないこと」「原動力であること」。

つまり、人生である。

高校時代とか、絵を描いている瞬間とか、誰かの子供であることとかと違って、人生は人間のすべてである。
生きることによって人生は得られるから、人の援助があったとしても、死なないという選択をし続けたことは独力で、だ。
もちろん、人生に高低はつけられない。
人間は人生で得た知識と経験をもとに生きる。絵が上手くなりたいと思えば絵を描くようになる。

逆に、赤ちゃんのアイデンティティが希薄なのは、その人生が「一部である」「依存している」「高低をつけられる」「原動力でない」ことにある。

赤ちゃんについて説明しようとすると、誰かとの家族関係についてや生まれた日にち、場所くらいなものである。
その短すぎる人生は他人に支えてもらって成立するため、むしろその他人のアイデンティティに取り込まれるくらいだ。
赤子は生活することに一生懸命だから、つまりごはんを食べるのが嫌いで5日も食べないとかは許されないから、その幼児としてのスキルに高低がつけられる。
本能を原動力としているのでその点ではいくらでもいる動物と変わらない。


人生がアイデンティティということは、その人がその人であること自体がアイデンティティであると考えてもいい。

その人をその人たらしめているものはその人の人生であり、まったく同じ人生を歩ませなければその人の完全なコピーは作れないが、まったく同じ人生を歩ませることがはもちろん不可能なので、贋作しか出来上がらない。


真のアイデンティティは人生であり、与えられたアイデンティティも互換可能性のあるアイデンティティも人生の一部であることから、偽ではなく一部のアイデンティティではあるが、それでもアイデンティティという言葉の意味を考えれば、言葉のあやにすぎない。

与えられたアイデンティティが人生の大半を占める時代、それぞれの労働に大半の労力と時間が費やされ、物と情報と安全に乏しく、総じて自由度が低い時代は終わった。
今や互換可能性のあるアイデンティティに人々が飛びついているが、いつか、人生そのものがアイデンティティであると気づいてくれれば、不幸も喧嘩も減るだろう。

そして誰もがもつ人生自体が尊ぶべきものと周知されれば、与えられたアイデンティティに義務感を抱くことはなく、誰かが搾取されることはなくなるのではないか。
しかし義務感の喪失と引き換えに解放感とその結果として欲求が顕著になり、ある目的のために協力を求めたら、相手にも義務感がないのでwin - winの関係にせざるをえないから、幸せが広がるのではないか。
互換可能性のあるアイデンティティにあえて挑み、しかし以前と違って安心感を抱いて、厳しくもあるルールを全員で受け入れて、効率もよく楽しめるのではないか。
その結果の類稀な研究と作品の数々は人々の幸せを作るのではないか。


Twitterで…………「何者」という言葉がよく散見される。「何者でもなかった」「何者にもなれなかった」とかネガティブな使い方をされている。
しかし、私は私以外の何者にもなれないし、私以外の何者かが私になることもない。
人間はどうしたって自分にしかなれないし、どうしたって自分にはなれる。

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