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【読ノ】なぜ私はアートを追求するのか?

いつのことかをはっきり覚えていないがパンデミックの後だった。哲学は私に「一時の感動」を与えた。コロナの感染拡大に伴う様々な規制によって、人々は社会から突然隔離され、身体的自由が制限された。心理的な孤立を回避するために、急遽何かの“救薬”が必要となり、おそらくその時、哲学に関連する本を読んだ。一種の鎮痛剤のように、混乱や迷走などの症状を一時的に和らげた。当時、あらゆる学問の終着点が哲学であり、すべての議論が最終的に哲学でその閉じたループを形成すると感じた。しかし、私は哲学を専門にしていないし、当然、生活を哲学に頼ることもできない。鎮痛剤は食事の代わりにはならないこともあり、無意識に依存を克服し、日常の生活に戻った。

そして、『法治的细节』(The Details of Legalism)という本との出会いはどうだったのだろうか?専門分野に関連する本を読む気はなく、たぶん最近締め切りに追われすぎて、抵抗感があったかもしれない。せっかく三日間の休暇があるなら、専門分野からいったん離れて自分の好きなことをしてみたらと思った。そこで、読書アプリを開いて、ランキングを調べ、この本を選んだ。著者である羅翔(Luo Xiang)を知っている。自分からプルしなくても、情報はプッシュしてくる。黙然として同意取得が不要となっている。情報は実重量があれば、私はすでに圧倒されたかもしれない。それにもかかわらず、羅翔先生について詳しくは知らない。一方、私には情報を受け入れるかどうかの自由と判断があり、先生が法学の教授であることと、現在広く受け入れられている情報伝達媒体(ソーシャルメディア)を使用してコンテンツを作成したり知識を教授したりしている。

結論から言えば、この本を読み終えた後、私の考えは、哲学が一種の思考方法であるならば、法学はこれらの思考や理念を具体化する学問だと思った。したがって、以前に考えていたように、すべての学問の終着点が哲学にあるという主張は依然として成り立つのだろうか?各人が各様の見解を持つから、ここでは議論を展開するつもりはない。久しぶりに私を食い入るようにさせるもの、あるいは夜通し考え込むことを引き起こすものに出会っていなかった。A4用紙6ページ半分のノートを書き写し、誰かと共有したいと切望している。本に書かれているように、「なぜ人は美を追い求めるのか。それは、それ以上の美があるからだ。正直、人は良いものに自己保持を望むが、最も美しいものを見つけると、それを自分だけのものにすることは決してしない。それは極めて美しいものだから、必ず誰かと共有したいと思う。その美は、自分で育てたものではないことがわかる。しかし、その美しさに気づいた瞬間、それはあまりにも素晴らしく、美しすぎて、感動的すぎる。」この言葉は非常に美しいと思ったから、上記のように日本語に翻訳してみた。
確かに、「美」は抽象的な概念だ。もし誰かに「あなたにとって美とは何ですか?」と尋ねると、おそらく1,000通りの異なる回答が出てくるだろう。しかし、美がもたらす極上の感動は誰にとっても同じである。誰かの涙を誘い、また誰かの夜通し目を閉じることができなくするタッチがあるだろう。美は人の心を再び活気づかせる導火線でもあり、私もその一員であることを認めざるを得ない。

しかし、この本では、1つ皮肉っぽい質問も提示している。「通夜買い物の人」と「一夜中本を読む人」は同じく、両者とも一時的な興奮とその後の疲労を伴って、喜びに満ち、失望に終わることではないか?確かに、そのように捉えるが、自己意識のある人間として、その「一時的な興奮」を続けさせるかどうかを決められるし、持続的に活かせるかどうかも選べることができる。毎日買い物をしても、それは機械的な反復作業のように思え、お金を使う快感と興奮だけだ。しかし、読書はそうではなく、それぞれの本から得た感情、理解、思考は異なり、自然にその興奮点も違ってくる。各本に対する思考を持続させることができること、私はそれが「败兴(失望)」ではないと思う。

少し話が逸れたが、本題に戻りましょう。「なぜ人々は美を追求するのか」と「なぜ人々はアートを追求するのか」という2つの質問に対する回答は共通点があると思う。現実に失望し、浪漫主義やユートピアの考えに向かうことでアートを追求することも、現実世界の複雑さを理解するためにシンボルや概念的なものを使用することでアートを追求することも、どちらも構わない。アートは一時的な感動を与えるかもしれないが、抽象的なアートは決して具体的な人間を代替することはできない。抽象的なアートの美を見つける一方で、共感できる仲間との関係を築くことを実現したいと思っている。

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