Johnny Wasに関するあれこれ2(聖書の観点から)
ドラマチックな内容のせいで気がつかない人も多いと思いますが、この曲は聖書を下敷きにしています。
単なる実録ものではありません。理不尽な暴力による罪なき若者の死を聖書を土台にして作品化した奥行きが深いナンバーです。
MacNeil氏による考察
このプロジェクトを通じて大いに参考にさせていただいている神学者Dean MacNeil氏の著作The Bible and Bob Marleyにそのことが詳しく、理路整然と解説されています。
聖書を読んだことがない大部分の日本のリスナーにとって「目から鱗」の深い分析です。ぜひこの機会にシェアしたいと思います。
見事な曲構成
この曲のstoryteller(語り部)はボブです。
第一節で、語り部ボブは泣き続ける女性の息子がどのようにして死んだか説明しています。
その中で「流れ弾によって」という警察の公式見解が明かされます。
第二節では、銃撃を目撃した通行人がいたことをボブが語ります。
第三節では、語り部ボブが隠された真実を明かします。
息子の死は偶然(流れ弾)によるものではなく、ジャマイカ社会のあり方(計画された組織的暴力)によるものだということです。
第四節で、ボブは物語に直接参加し、語り部から当事者に変身します。
あの「通行人」は実は自分(I)だと打ち明けるのです。
この「I」はボブであると同時に Jahでもある、神はそこにいてボブと共に母親を慰めているというのがMcNeil氏の読み方です。
ふたつの設問
McNeil氏によると、この曲はふたつの問いを提示しています。
ひとつ目の問いは「どうすれば息子の死と自分の信仰との間に折り合いをつけられるのか?」というものです。
前提条件は母親の信仰です。
彼女は新約聖書のローマの信徒への手紙(Romans)6章23節をそのまま信じていたのだとMcNeil氏は言います。
この箇所です。
信心深い彼女にとって、「善人だった息子の命が奪われる」のはありえないことです。
ボブはこの問いには答えません。
なぜ人は死ぬのかという根源的な疑問に対する簡単な答などないからです。
その代わりに曲のラストでボブはふたつ目の問いを反語的に投げかけています。
「実の子を哀れむ母の愛が絶えたりするだろうか?」
これは旧約聖書のイザヤ書(Isaiah)49章15節の次の言葉をボブが自分なりに解釈してアレンジしたものです。
彼が言いたかったのは「母親が実の子を忘れないように、すべての人間を愛する神もまた決してジョニーを忘れない」ということです。
隠されたメッセージ
このメッセージ後半部分は歌詞には書かれていません。
感じとれる人だけが感じとればいい。そう考えてボブはメッセージを隠したんだと訳者<ないんまいる>は理解しています。
以前にも書きましたが、ボブが歌っていることを理解するには聖書の知識が不可欠です。
聖書の観点からボブの歌を研究し続ける神学者McNeil氏の読み方はすごく参考になります。これからも必要に応じて紹介していこうと思います。
それじゃ今回はこのへんで~
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