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料理と山椒と私

2018.12.12

最近、料理をしていると同じ味付けをしていることに気が付く。最近はずっと、醤油・鶏がらスープの素・山椒・ラー油の味付けをヘビロテしている。食材を毎回変えて、次の日こそは違う味を!と思っているのに、気づいたらこの辛い味になっている。不思議だ。山椒はいつもピリリとしておいしい。

変なところで頑固なのだ。いつも。その頑固さにヘトヘトになることもあれば、救われることもある。味付けもきっとおんなじで、「好きな味だからまあいっか」と思っている自分もいる。でもずっと山椒を食べ続けてても大丈夫なんだろうか。二週間前に買ったばかりの山椒の瓶はもう空になってしまった。こんなハイペースに山椒を摂取していいのかな。ナツメグはあんまり大量に消費したらだめだよ、って聞いたことがある。何事も過剰摂取はだめなんだろうな。明日こそ、違う味付けにしよう。

* * *

と昨日思っていたのに、またやってしまった。
また今日もこの味である。
でもうまいんだよなあ。米が進む。じゃあいっか、と納得しかける自分がいる。いやいやいや、じゃあいっかじゃないんだよ。山椒が原因で死んだらたまったもんじゃない。でもそもそも山椒の過剰摂取で死ぬことなんてないのかもしれない。「山椒について調べた方がいいよ」と思う自分と、「めんどうくさい」と思う自分がいる。その間に食事はすすむ。いやあ、おいしい。この味付け本当に好きなんだよなあ。

食事の時間は、好きな時間だ。
ご飯を食べている間、食物がエネルギーになって自分の体にとけていくような心地になる。以前はどうしてもかきこむようにしてご飯を食べていたけれど、最近はちゃんと噛みしめて食べるよう心掛けている。そうすると本当にエネルギーが分解されて、その分子が体にしみわたっていく感じが、何となくイメージできるのだ。
命あるものが、自分の体に脈々と受け継がれていく。命はもうない。ないけれど、ここにある。おいしかったなぁ、ごちそうさま。そう言った瞬間に、腹の中でつもる幸福感。私は本当に、「食事」そのものが大好きだ。いただく時間が、最高のしあわせだ。

そう思ったら、別に毎日同じ味付けでもいいような気がしてきた。自分はその味付けで幸せになっているし。食事がおいしいなぁと思えるし。山椒で死ぬことがなければ、万事解決である。・・・最悪、山椒で死ぬようなことがあってもいいか。山椒おいしいもんな。あのおいしさで人が死ぬということがあっても、山椒のおいしさだったらしょうがない気もする。むしろおいしいものをいただいた代償と言うべきかもしれない。

結局調べましたが、過剰摂取はだめみたいです。でも山椒の実50個とかそういう量がだめらしい。じゃあ、大丈夫じゃん!全然セーフだった。

明日も、この味付けでご飯たべよ。

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