あの子の乱れた髪を、もっと丁寧に直すべきだったんだ。




彼女はまだ11歳だというのに、
もう既に生きることに疲れたような目をしていた。


そう考えるとすごいことだ。
まだ11年しかこの世に生きていない子どもが、
円周率について学んだりするのだから。


「ねぇ、おねえさん。
わたし最近こんなことを思うの。
どうしてわたしは、わたしなんだろうって。
わたしの魂は、どうしてこの身体と一緒になったんだろうって。」



バス停で私の隣に立つ彼女はそう話し始めた。


彼女とはほとんど毎朝同じバスに乗って駅まで行っていた。

時々姿が見られない時もあったし、
私自身が別の時間のバスに乗ることもあった。


もし彼女が、普通の11歳の女の子のように無邪気な愛くるしさを放っていたのであれば、私もそこまで彼女を意識することはなかっただろう。

しかし、彼女の放つ雰囲気は、普通の小学生の女の子が放っているものとは大きく異なっていた。



「結局のところ、わたしってどれなのかな?って思うの。
この身体?この顔?わたしが今何を思っているかということ?
ますます分からない。
わたしはどうしてわたしなんだろう。
わたしはこの身体と心を使って、何をしたらいいんだろう。
何をしたいんだろう。」




こんな風に、彼女と私が話をするようになったのは、ある雨の日がきっかけだった。


その日は前の晩から雨が降っていた。
それなのに彼女は傘をささずに、雨に打たれながらバス停に立っていた。


私は彼女を、自分の傘の中にいれてあげた。


翌朝、天気は晴れだった。
彼女はまたいつものようにそのバス停にいた。


そして改めて、傘にいれてくれたお礼を言ってくれた。


彼女の口調は、見た目とは異なり、意外にもハキハキとしていて、礼儀正しかった。

それからは、他愛もない話をよくするようになった。

いくつなのか。
学校は楽しいか。
どんなことを勉強しているのか。


彼女はすぐに心を開いてくれたように感じた。


当たり障りのない会話は、気づけば少し重い内容の話ばかりとなった。



今日はあまり学校に行きたくない とか
彼女の両親の関係があまり良くない とか


彼女は髪の毛を結わっているときもあれば、何もせずおろしているときもあった。


結んでいても、彼女の髪は少し乱れていた。
しかし、彼女はそれを気にする様子もなかった。

「おはようございます。」



私の姿を見ると、彼女は嬉しそうに挨拶をしてくれるようになった。

もちろん私も嬉しかった。


挨拶にも愛はこもる。

そして、挨拶にこそ、愛をこめなければいけない。

中高時代の訓えを思い出す。


彼女の挨拶には、人を幸せにする力があった。

彼女に対して、次第に親しみをもてるようになっていった。


「おはようございます」

その日も彼女は笑顔と、ハキハキとした声で挨拶をしてくれた。


私も"おはよう"と返して、
彼女の乱れた髪を直してあげようとした。


でも、私はそこで少し躊躇った。

いくらなんでも、髪の毛を触られるのは少し嫌かもしれない…


彼女は、私が彼女の髪の毛に手をのばしたことに対して、嫌がる素振りは見せなかったし、それを避けようともしなかった。


のばしかけた手を引っ込めるのも、なんだかいやらしいと思い、
さりげなく、
なんとなく、
私は彼女の髪の毛を手櫛で整えた。



それは、整えたと言えるほどでもない。



実際には、少し見た目がマシになっただけで、彼女の髪はまだ乱れたままだった。


実際に髪の毛に触れても、嫌がる様子はなく、彼女は少し、甘えたような目を見せた。




しばらく彼女の姿を見ない日が続いている。


時期的に"長期休み期間"というわけでもない…



もしかしたら、彼女はバスの時間を変えただけかもしれない。


でも、もしかしたら、もうこの街にはいない可能性もある。




もちろん、彼女に会えなくなって、私は少し寂しくなった。

しかし、彼女に会いたいと思っても、どうすることもできない。



彼女の愛のこもった挨拶で、自分が毎朝どれだけ救われていたかを知って、胸がぎゅっと締め付けられる感覚がした。


今日も私は、いつものバス停でバスが来るのを待っている。
バスはいつも、定刻よりも数分遅れてやってくる。



心地よい風がふいて、私の髪の間を通りすぎる。
乱れた髪を直しながらふと思い、目頭が熱くなる。




あの子の乱れた髪を、
もっと丁寧に直すべきだったんだ。



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