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【いざ鎌倉(10)】源頼家政権の始動と三左衛門事件

今週は2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第1次キャスト発表が盛り上がってますね。
私も発表を楽しみに眺めています。

初回から書いてますが、このnoteは「鎌倉殿の13人」の予習記事を目指しています。
大河放送前に鎌倉時代初期を勉強したい!という方に是非お読みいただきたく思いますm(_ _)m

人物伝、コラムと続きましたので久々に本編に戻ります。
本編の前回は下記のとおり。

先週更新のコラムも読んでいただくと、建久10(1199)年頼朝他界直後の鎌倉幕府の状況もわかりやすいです。
お陰様でアクセス数がかなり良い感じです。ありがとうございます。


2代目鎌倉殿―源頼家

源頼朝薨去の報は、1週間後の建久10(1199)年1月20日に京へ届きます。
源博陸」(源氏の関白)と称された朝廷の実力者である源通親はこの頃、自身の右近衛大将任官に合わせ、幕府の次代の後継者である頼家を左近衛中将に昇進させることを考えていました。

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源通親(三の丸尚蔵館蔵『天子摂関御影』)

かつて頼朝が任官していた右近衛大将は幕府にとって、特別な役職であり、その職に通親が就任することには幕府からの反発があることも予想され、その反発をかわすために頼家を合わせて昇進させようというのが通親の狙いでした。
しかし、頼朝が死んでしまうと問題が生じます。
当時の慣例として喪に服すことになる頼家を昇進させることができないからです。

なので、通親は頼朝薨去の報が京に届くと臨時の除目(朝廷の役職を任命する儀式)を行い、頼朝が既に亡くなっていることを知らないよう装って自身の右近衛大将就任と頼家の左近衛中将就任を決めてしまいます。
位階が五位のまま中将に任官する「五位中将」は本来、摂関家にのみ認められた特権であり、後鳥羽院と源通親により源氏将軍家はこの時、摂関家と同等の家格へと昇りました。

1月26日、土御門天皇より頼家に宣旨が発給されます。
内容は下記のとおりです。

前征夷将軍源朝臣の遺跡を続ぎ、宜しく彼の家人郎従等をして、旧のごとく諸国守護を奉行せしむべし

頼朝の跡を継いで幕府をこれまでどおり運営せよ」という内容ですが、この宣旨の大事なポイントは幕府の側から求めたものではなく、朝廷の側から自発的に発給したということ。
つまりは、この時点で鎌倉幕府は後鳥羽院と源通親にとって国家に必要な組織となっており、その存在を公的に認めたということになります。
これにて源頼家は正式に朝廷から頼朝の後継者「2代目鎌倉殿」としてその権益を継承することを天皇から認められました。
ただ、この時点では、頼家は征夷大将軍には任じられていないことは要注意です。

三左衛門事件

源通親の臨時除目強行後、何者かが通親を襲撃するという噂が京では流れ、不穏な空気となります。
襲撃を計画したとされるのは、頼朝の妹婿で親幕派の公卿・一条能保の遺臣たちでした。
能保とその嫡子・高能が相次いで亡くなり、さらに後ろ盾であって頼朝まで失ったことで、一条家が通親に冷遇されることを恐れた末の計画だったとされます。

なお、この頃は幕府の御家人が、鎌倉の将軍だけでなく京の皇室や公卿にも仕える両属となることは珍しいことではなく、襲撃を計画した一条家遺臣たちは在京の御家人でもありました。

2月12日、幕府からの使者が京に到着し、源通親を支持する姿勢を打ち出したことで事態は沈静化へと向かい、通親は首謀者の逮捕と新幕派公卿の出仕停止を断行します
逮捕された後藤基清、中原政経、小野義成の3人の官職がいずれも「左衛門尉」であったため、この事件は三左衛門事件と呼ばれます。

事件の背景には、前年の後鳥羽上皇から土御門天皇への譲位に反発する皇位継承を巡る対立も要因の一つとされます。
三左衛門事件により、頼朝生前からの鎌倉幕府と源通親の協調関係維持が確認されることととなり、源通親の政権基盤はより強固なものとなりました。
この年の6月、通親は内大臣に昇ります。

頼家親政の開始

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源頼家(京都・建仁寺所蔵)

3月5日、「新・鎌倉殿」頼家は、三左衛門事件の首謀者の一人とされた後藤基清を処分し、讃岐守護職を解任します。幕府の史書『吾妻鑑』はこのことを頼朝が定めたことを改めた最初の例と記します。
続く3月23日には伊勢神宮領6か所についての地頭職を停止し、行政権、警察権を神宮に返還します。
先代・頼朝の意志を一定程度継いだ政策と考えられますが、鎌倉殿の代替わりに合わせたこの機会に伊勢神宮崇敬の意志を示したというのは特別な意味があるようにも思います。

こうして頼家の政治がスタートしますが、頼家はまだ18歳。
政治経験は不足しており、戦場での実戦経験は完全にゼロ。
頼朝とともに平家を滅ぼした百戦錬磨の御家人たちに全面的に信頼されているとは言えず、御家人の派閥間の対立を調停する指導力もありませんでした。
父・頼朝が決めた先例を覆すことへの反発もあります。

こうした頼家の若さゆえの経験不足は、すぐに政権の亀裂を生むことになります。

次回予告

13人の合議制の成立。
2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の「13人」について解説します。

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