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【創作論】エッセイでどこまで嘘ついていいか考えてみた。

■ 起こり

直近でエッセイ(体験談という程度の意)を書きました。
今までは自分の体験を語るにしても、体験そのものより主張に重きを置いた文章を書くことが多かったので、今度は体験そのものを主題に据える意識で臨みました。

だ・である調で体験を語ろうとすると、私の場合文体が小説っぽくなるようです。特に意識せずに書いたらこうなりました。


それはそうと、書いているうちに
「エッセイとは言え、嘘ついてもバレないな」
と思いました。

となると、問われるのは私の良心のみです。
直感的に嘘を書かないようにしていましたが、その直感の中身を深掘りする必要があります。
「人を殺すべきじゃない」という直感について、「なぜなのか」と考えることに似ています。

というわけで、エッセイでどこまで嘘ついていいか考えてみました。

■ 本題

まず前提が二点。

1、エッセイは普通嘘つかないものである。
2、嘘をつかないほうが良いに決まっている。

以上を踏まえた上で、嘘つくならどこまでやれるか考えます。

それと、これを記事にするにあたっての補足的前提をもう一つ。
3、以下の内容は私の個人的な線引きを紹介するものである。


許容されうる嘘の線引きを考える際、私が要点としたのは内的要素と外的要素の区別です。
内的要素は心の動き、外的要素とは事実関係と言い換えてもいいです。


先にリンクを貼った「寄付の話」の場合、寄付しているという行動が丸ごと作り話だとしたら、読者は寒気がするでしょう。
実際の体験談と銘打ってはいないものの、あの内容でフィクション小説だと思って読む人はいないはずなので。

一方、例えば「母系社会に興味があった」とか、「『寄付している』と言ってみたい気持ち」とか、そういった動機の部分は仮にどれだけ嘘を並べても体験談としては破綻しません。

なぜなら、行動という外的要素は検証可能だが、心理や動機といった内的要素は根本的に検証不可能だからです。
実際に検証するか否かはさておき、理論上検証可能か否かの差は、嘘の許容を線引きする際には重要な要素だと思います。


こと文章において、そこに書かれた内的要素の真偽を確かめる術は皆無です。嘘を書いても信じる読者はいるし、逆に本当のことを書いても嘘と思われたらそれまで、ということもありえます。
それでも、なら嘘を並べてもいいかと言えば、やはりそうではないでしょう。


全てのエッセイの内的要素の真偽を疑って読むとします。
疑ってかかれば、大抵のエッセイは嘘とみなせるはずです。
noteも含め、ネット上の顔の知れない人間の書いたモノなど特にそうです。

つまり、信じるという構えで読まないと大抵のエッセイは自分にとってゴミになるということです。
信じなければ、どんな珠玉の文章も無価値なのです。


これは文章論を飛び越えて人間論としても同じことが言えるかもしれません。
相手をまず信じてみなければ、相手から得られるものなどありはしない。
互いに信じ合うことで、初めて互いが価値あるものとなるのではないでしょうか。


私は驚きました。
自分は比較的ひねくれた人間の部類に入ると自認していたのに、noteで他人のエッセイを読む際、疑ったことがなかったのです。
おかげで、まだ始めて数ヶ月ですが、すでに皆様の文章から得たものはあったと実感しています。

■ 結び

文章で嘘をつくのは、対面で嘘をつくより容易です。
直感的に対面の嘘ほうが罪深いと考える人もいるかと思いますが、対面はその分、化けの皮もはがれやすいし、はがしやすい。

対して、文章の嘘は見抜かれにくい。だからこそ、その嘘が他人に与えうる失望や落胆は甚大であると私は考えます。

エッセイみたいに自分語りをやる時くらいは、誠実にいこうかな……。
前提はくつがえりませんでした。