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2024年映画感想No.7:夜明けのすべて ※ネタバレあり

苦しみを抱える人の居場所を探す物語

109シネマズ川崎にて鑑賞。
日常を上手く進めなくなってしまったことに苦しんでいる人たちがそれぞれの前進に辿り着くまでを描きながら、同時にこの星は常に動き続けているのだから自力で前に進めない時もあなたは前に進んでいるんだと優しく包み込むような物語だった。

藤沢さん〜社会に順応できなくなることの苦しさ

上白石萌音演じる藤沢さんの日常がなんとかならなくなってしまう冒頭の描写から観ていてとても辛い。
一つバランスが崩れ、その上手くいかなさをなんとかしようとしてまた別の無理をする。そうやってどんどん失敗と自分への失望が積み重なっていき、最終的に今いる場所を諦めて孤立することを選んでしまう。当たり前が急に難しくなってしまう苦しみやそういう自分を否定的に捉えてしまう辛さに僕自身が大きな病気をした時の経験を重ねながら観てしまった。
退職願を出した時のことを藤沢さんは「私は必要ないと言われた気がした」と振り返るのだけど、病気という自分ではどうにもならない事情で自分を否定する必要なんか無いよと思う。ずっと彼女に「大丈夫だよ」と声をかけてあげたかった。
彼女の社会に適合できなくなっていく感覚はファーストシーンの「バスに乗れない」ということにも象徴されているように思う。苦しんでいる藤沢さんに対して声をかける警察官や職場の女性の言葉には人の抱える辛さにアプローチする難しさ、アプローチできないところから投げかけられる言葉の世知辛さの両方を感じた。警察にとっては「よくある些細な出来事」なんだろうと感じさせる事務的な手続きは、一方で藤沢さんにとっては自分がキッカケで他者の手を煩わせることへの自責という会社を辞めることになるまでの彼女の心情に繋がっているように思う。そうやって自責に追い詰められている彼女に寄り添うりょう演じるお母さんが警察署を出る時に一緒に濡れてあげるのが僕には不器用な優しさのように思えて胸がギュッとなった。
藤沢母が警察署でサインする時にペンを落としてしまう描写があるのだけど、ラストシーンのキャッチボールの演出といい誰しもに当てはまる「完璧じゃなさ」を見つめるところに三宅監督の世界に対する優しい眼差しが感じられてグッとくる。

他者として登場する山添くん

藤沢さんがそれまでいた社会から完全にこぼれ落ちてしまったところで時制が5年飛ぶ構成もハッとなる。藤沢さんの病気がどうなっているのかを気にしながら観ている観客は彼女が健気に働く姿を観ているだけで応援するような気持ちになってしまうのだけど、だからこそ彼女目線から「なんなんだあいつは」という人間に映る松村北斗演じる山添くんに対して同じような違和感を共有させられる。
彼の微妙な悪印象の積み重ねがついに爆発するところで藤沢さんが山添くんに感じていたこと、藤沢さんの病気の状態、栗田化学という会社の寛容さという全てが一気に明確になるような描き方になっているのが演出の段取りとして上手いし、その「第一印象最悪」という描き方から山添くん側の視点の導入を作っていることがラストの山添くん視点のモノローグで語られることをそのまま観客にも体感させる描き方になっていることに感心、感動する。

一人でどうしようもなくなった世界を更新する誰かとの繋がり

居場所が無くなることに対して不安がある藤沢さんはお菓子を配ったりなど必要以上に「何かを差し出すこと」で組織に貢献しようとしてしまう部分があり、それは時に押し付けがましかったり自己犠牲的で痛々しく見える瞬間もある。
一方で自身の現状に納得していない山添くんは求められる以上に決して踏み込まないドライで合理的な人物なのだけど、彼自身がこうありたいと思っている自己像と違って彼の現状は人の助けを必要としている。
そうやって何かに寄与するやり方で自分がそこにいる意味を作ろうとしている藤沢さんと何かが出来なくなった自分を受け入れられず助けを求められない山添くんが相互に影響し合うことでそれぞれが自分一人ではどうしようもなくなってしまっていたお互いの世界を描き直し、回復させていくのがとても良かった。彼らが「普通じゃない」と劣等感を抱いている「完璧じゃなさ」こそが普通であり、だからこそ助け合うことが当たり前だし、それがより良い世界に繋がっているんだという本作が描く優しい問い直しに感動する。

「移動」の描写と「光と影」の演出

藤沢さんと山添くんの抱える自己欠落感が「公共機関に乗れない」ということに象徴して描かれているからこそ、劇中の「移動」が描かれる場面がどれも心に残る。
職場で発作を起こした山添くんを藤沢さんが歩いて家まで送り届ける場面では日向と日陰という印象的な光の演出がある。職場を出て歩き始める山添くんが日向から日陰に入る。日向からそれを見送っている光石研演じる栗田社長が家まで送るように藤沢さんを促して彼女もまた日陰に入る。二、三歩動いて彼らを見送る栗田社長は日向と日陰の狭間に立っている。
山添くんが見送りを断るトンネルの手前も日向と日陰の境界になっている。その立ち位置の違いがその時点での関係性の隔たりのようでもあるのだけど、藤沢さんはそれを飛び越えて山添くんのいる場所に踏み込んでいく。そこに映画的で柔らかな繋がりの予感があるように思う。
また、藤沢さんが山添くんの病状を知るために読むパニック障害の方のブログには「僕には歩ける範囲が世界の全て」という一文がある。(うろ覚えのため正確な引用ではありません。すみません。)
だからこそ彼女が山添くんにプレゼントする自転車には彼の世界が広がるようにという藤沢さんの優しさが込められていると思うし、それに対して劇中で初めて山添くんが自転車を走らせる場面は病気で早退した藤沢さんに忘れ物を届けるためというのがまた優しくて感動する。藤沢さんのエコバッグで山添くんが親切をお返しするのも良心の往復という構図の感動を増幅させているように思うし、最終的に職場に戻る山添くんが藤沢さんの優しさに影響されて他の誰かのことを思ってお土産を買って帰るのが本当に感動的だった。
また、山添くんが藤沢さんの家に向かう途中でもまた印象的な光の演出がある。線路沿いの電車の音でトラウマが蘇ったのか山添くんは一度自転車を降りるのだけど、立ち止まった山添くんが日向から日陰へと歩き始める。決して何かはっきりと説明されるわけではないのだけど、彼が前に進もうとしているような描写に感じられるし、人が前に進むために必要なのは誰かの良心であり、誰かへの良心であるということを描いている場面になっていると思う。

人それぞれに抱える苦しさやままならなさについての話

藤沢さんはPMS、山添くんはパニック障害とそれぞれの状態を説明する言葉があるのだけど、病気ではなくその人本人に向き合うことで何に苦しんでいるのかを理解できるという描き方になっているのも良かった。病名はあくまで理解のきっかけであり、病気ではなく人それぞれの抱える苦しさそのものを見つめている。
この映画では藤沢さんや山添くんを助けている他のキャラクターもみなそれぞれに痛みやままならなさを抱えている。そういう人たちが誰かのための居場所を守ろうとしていて、それぞれが救い合う世界が作られていく。僕たちの人生にはいつだって誰かを助けられる可能性が存在しているし、同時に誰の助けも必要ない人なんて一人もいないのだと思う。
5年の間に病気で身体の一部が不自由になった藤沢さんのお母さんはそれでも娘に仕送りを続けている。大切な人を自殺で亡くした過去を持つ渋川清彦演じる辻元さんや栗田社長もそれぞれに人生の限界と向き合いながらこれ以上誰かがいなくならない世界を守ろうとしている。それぞれができる範囲で誰かを助けているし、誰かに助けられている。
再び自分を見つけることができた山添くんに対して辻元さんが思わず涙を見せる場面には、彼が報われたことも相まって「良かったねえ」という気持ちで一緒に泣いてしまった。彼はずっと山添くんを心配して気にかけていたし、自分に何ができるのか悩んできた優しい人なんだと思う。

繋がることで広がる世界

藤沢さんと山添くんを雇っている栗田社長はある意味で一番直接的に彼らを助けているとも言えるのだけど、そんな二人の移動プラネタリウムへの取り組みが栗田社長が亡くなった弟さんの倉庫を再び開けるきっかけになっている。主人公二人が弟さんの生きた証のような宇宙の研究に触れることで止まっていた時間が動き出すようであり、同時に弟さんが残した言葉が残された人々の世界を豊かに更新していくようでもある。
想いを分かち合うことで世界が素晴らしくなる、そういうこの世界の美しい繋がりを見つめる眼差しに終盤はずっと感動してしまった。

良心の積み重ねの先にある小さくも大きな人生の変化

プラネタリウムの最後に藤沢さんが引用する「夜明け」の話のように、影があるから気づける光がある。夜が暗いから地球の外側にも世界が広がっていると人類が気づけたように、自分の中に自分ではどうしようもできない部分があるからこそ人生には自分以外の誰かの存在が必要なのだと思う。世界は一人では完結し得ないし、生きていたらそれを祝福したくなる瞬間がきっといつか訪れる。
冒頭で土砂降りの雨の中で立ち上がれなかった藤沢さんが終盤に母親を見送りながらお天気雨に打たれる。かつては相手のことが心配で見送ることが出来なかったトンネルの前で二人が帰り道を別れる。藤沢さんの余裕なく吹き込む留守電と感謝を述べる留守電には小さくも大きな違いがある。誰かと共に生きたいと思う良心の積み重ねがこういう小さくも大きな人生の変化に繋がっていることに映画を観ているこちら側も救われるような気持ちになる。
栗田所長は栗田化学について「ミクロとマクロを繋ぐ会社」と表現する。一人一人の物語がつながり合って大きな群像劇としてのこの世界があり、その舞台であるこの星は今日も回り続ける。そうやって人も世界も前に進んでいく。ラストカットの美しいロングショットにはそんな優しい世界の在り方が表れているように感じた。

僕もまた、弱い人間だと思われたくない自分がどうしようもなく苦しくなる時がある。だからこそ孤独の居場所になってくれることも含めて一人じゃないと言ってくれる映画にずっと救われている。

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