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2023年映画感想No.82:月 ※ネタバレあり

テーマを自分ごととして考えさせる映画の作り

新宿バルト9にて鑑賞。
サービスデーではあったけれど平日の昼からバルト9のそこそこ大きいスクリーンが中々の割合で埋まっていて映画がたくさんの人に届いているように感じられた。上映中も場内が集中して映画の内容を受け取ろうとしている感覚があってとても良い環境だったと思う。
2016年に相模原の障害者施設で起きた殺人事件を元にした作品なのだけど、僕個人としては元になった事件を詳細には覚えていなかったので誰がどのように動機を抱いていくのかに対して常に緊張感を覚えながら観た。キャスティングや役割の大きさから観ながらある程度は誰が犯人になるのか予想できる部分はあるけれど、それ以上に普通の人が殺人犯になってしまうに至る流れに強い緊張感がある構成に引き込まれた。異常な凶行を犯す人物は異常者ではなく普通の人、ということの怖さが鋭く描かれていると思う。
現実の事件の記憶が鮮明なうちの映画化というスピード感も作品の意義をより大きくしていると思う。フィクションと現実に起きたことを結びつけて考えられる人がたくさんいるという状況はより映画の投げかけるメッセージを自分事として受け止めさせる力を強めるように感じた。
まさに冒頭の旧約聖書の引用も「他人事ではない」という宣言であり、「きちんと考え続けなければまた起きるぞ」という警鐘の意味を明確にしている。

見えない場所にあるおぞましい実態

劇中の障害者施設が森の奥にあることについて映画内でも社会から見えないようにされていると表現される。現実社会のリアルと障害者たちの生きているリアルの間には社会が作り出す断絶があり、だからこそ宮沢りえ演じる洋子は働き始めた施設の実態を知ることで大きなショックを受ける。
そうやって可視化されない場所で常態化する暴力や差別を象徴するかのように、介護施設の場面はほとんどが暗い夜の設定になっている。暗闇の奥の見えない場所におぞましい実態があるということが映像的に表現されていて、タイトルにもある「月」の明かりはその断片を照らすかのように真実をスクリーンに映し出す役割を果たしているように思う。基本的に介護施設は暗闇そのものであり、そこに差し込む僅かな光は「そこで何が起きているのか」を観客に知らせる映画という想像力を象徴しているように感じた。

堂島洋子〜何かを表現する、という想像力の入り口

宮沢りえ演じる洋子、オダギリジョー演じるその夫の昌平、磯村勇斗演じるさとくん、二階堂ふみ演じる陽子とこの映画の主要となる4人においてそれぞれの傷ついた自尊心が「何かを表現すること」に象徴されて描かれるところが興味深かった。表現できないことがそれぞれの傷ついた状態を表しているようであり、そうやって表現することの意味が変わってしまったそれぞれが進んでいく先にあるのもまた「それぞれにとって意味のある手法としての新しい表現」でもあるように思う。
洋子が現実を描くことと向き合い悩み続ける姿にはこの映画の作り手自体の葛藤も重なって見える。向き合うことや考え続けること、想像力を持つこと、そういう人類の尊厳として何かを表現することに希望を託すような描かれ方だと感じた。もちろん表現することにはその行為そのものへの是非も論じられるべきだと思うのだけど、それでも洋子が自分にしか書けないものがあるんだと創作に向き合うところには物語の力を信じたいという切実な願いが込められているように思うし、正解などないからこそそこにある是非に対してはそれを享受する側である観客も一緒にその正しさ、正しくなさについて考え続けていかなければいけないと思う。
キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』などもそうだけれど、痛ましい出来事に社会性を帯びさせる映画という表現手法にはある種のエクスプロイテーション性が常に内包される。そういうものが痛みの中にいる人々を置き去りにしてしまわないように、物語る側も受け取る側も考え続けることが大前提としてある。それを忘れずにいたい。

昌平〜内省としての創作行為

オダギリジョー演じる昌平は自分が無力であることも含めて大切な人を傷つけてしまうことに傷ついている。見失ってしまった自分の存在意義を探すように作品を作り続けている一方で、職場の先輩から「そんな売れないもの作ってダメだなお前は」と嘲笑われてしまうなど、物作りが自尊心の欠落が埋めるどころか彼自身を否定するばかりなのが見ていて辛い。
ある意味正しく傷つくこともできていなかった昌平が終盤にさとくんの誤った認識を否定する際に劇中初めて自分の感情を強く吐露するのだけど、「息子は生きたかった」という彼の言葉が残された側の悲しみも含めて生きるっていうのはそういうことだと愚直に生を肯定しようとしているようで胸に来た。感情を出し慣れていない人が初めて自分の思いを爆発させているかのように不器用にブチギレる、そういうオダギリジョーの演技が本当に素晴らしかったと思う。
だからこそこの直後に昌平の作品が賞を受賞する場面があることで彼なりに人生の悲しみと向き合い続けた戦いが報われたように感じられるのが感動的だった。自分のことを二の次にしてしまう彼は中々受賞のことを洋子に言い出せないのだけど、だからこそ自分の大切な人にとって誇れる自分でありたいと思い続けてきた彼が見せる涙にめちゃめちゃ感動した。

陽子〜表現というアイデンティティを持たない人物

二階堂ふみ演じる陽子は家庭内や職場といった自分のいる場所において常に抑圧に囲まれ続けている人物であり、彼女が「表現すること」を口にするのはそういう状況を客観視するための防衛本能のように見える。言い換えれば何かを表現したいという切実な動機はなく単に自分を楽にするためにだけ「表現者」という逃げ場を作ろうとしている人物であり、だからこそ表現そのものが大切ではない彼女はこの映画内で表現する姿も出来上がった作品も全く描かれない。
表現することがアイデンティティではない彼女は創作という自己表現で自尊心を回復できないので、結局自分を傷つける対象に対して直接的に悪意をぶつけることでしか鬱屈を解消できない。そうやって自分の幸福度を他者と比べることの不幸から抜け出せない彼女のあり方は悪い意味でとても現代人らしいと思う。
言葉という彼女の表現は自分自身を肯定する手段ではなく他者を攻撃する手段になってしまっているし、そうやって何かを創作することを本質的には信じていない彼女は現実を変える術がなく、だからこそその結果としての惨劇を最も近いところで目撃してしまう立場として描かれているようでもある。

さとくん〜変容してしまうクリエイティビティという良心

最終的におぞましい事件を起こす張本人となる磯村勇斗演じるさとくんは、映画に登場した時点では何かを表現する行為によって現実をより良くできるということをまだ信じている。この映画で彼が最初にやっていることは施設利用者への紙芝居の制作であり、彼の持つ芸術表現が他者とのコミュニケーションの可能性を作り出している。
序盤から死への強烈な興味を匂わせるところがあり「こいつどういうつもりなんだ?」という危うさを感じさせる一方で、他者との関係に働きかける手段としてクリエイティビティを発揮している。動けない利用者の部屋に紙の月を貼ってあげるなど、ものを作ることがコミュニケーションや他者への想像力に直結している。つまり彼にとっては芸術こそが他者との繋がりの糸口でもあるわけだけど、そういう彼の言語は施設の先輩たちからの酷いいじめによって暴力的に否定され、変形してしまう。
彼の自尊心が決定的に壊れてしまう場面としてある夜に酷い目に遭っている利用者に自分の姿を重ねてしまう描写がとてもショッキングなのだけど、暴力によって変えられてしまった彼は暴力を否定することができない。暴力という他者を排除する手段と、差別意識という自己優位な認識に縋ることしか自尊心を保つ自己証明の拠り所が残されていない。
「何かを作ること」を否定された彼は、代わりに暴力という「何かを奪う」行為を他者との関係を解決する手段として内面化してしまう。そうやって言語を奪われた人間が最終的に「話ができるかどうか」によって殺す対象を線引きするのが皮肉だし怖い。
彼のクリエイティブなアイデンティティが残虐な暴力性に変容してしまったことを象徴するように、壁に貼られた紙の月に血飛沫が飛び、剥がれ落ち、代わりに彼が手に持つ鎌の刃が三日月のように光る。一方で残酷な事件を「自分とは関係のない」「自分はそうならない」と切り離さず、自分ごととして想像させる窓口として物語の眼差しはあるんだということが惨劇を見つめるあの紙の月に託されているようにも思う。

疲弊した個人による無自覚な抑圧と無関心

さとくんを決定的に変えてしまう大きな原因である職員の先輩二人が他人事のように「あいつも絵を描くことをやめなければ良かった」と話す様子にもゾッとする。疲弊した個人が無自覚に他者を傷つけ、その結果には無関心なまま今日も不条理な社会は回り続ける。
「そういうものだから」と残酷な社会構造に迎合すると誰でもすぐ彼らと同じ立場になってしまうし、現実に一番多いのは実は彼らのような立ち位置の人だと思う。

映画という想像力と創造力について

僕は自分が被害者になることと同じくらい加害者になってしまうことが怖い。そのためには常に自分を疑い、自分の中の正しくなさを見つめるのと同じくらい自分の中の正しさについて考え続けなければいけないのだと思う。
映画はそういう想像力を与えてくれるし、想像することだけが「これまであったことはこれからもあり、これまで起きたことはこれからも起こる」という繰り返される負の歴史を少しでも遠ざけると思う。

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