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つくりかけの塔、こわれかけた塔 ~古建築の転用について:1

 ある建物が、本来の役割や機能を変えて「転用」される。場所を変えて「移築」される……そういった現象に、じつはたいへん興味がある。
 日々の読書や情報収集、鑑賞・参拝のなかでその例に出くわすたびストックをしてきたのだが、秘蔵しきりでなかなか活用できずにいた。
 今回はそのなかから、お寺の「塔」にまつわるおもしろい事例をまとめてみようかと思う。

【参考】興福寺五重塔(応永33年〈1426〉頃)。もちろん「つくりかけ」でも「こわれかけ」でもない、完成例である。先日の奈良行で早朝に撮影。まもなく改修工事に入る(はずの)ため、しばらく見納め


【1】 観心寺(大阪府河内長野市)

 まずは、こちらをご覧に入れたい。
 このお堂、どこか変ではないだろうか?

 建物部分と藁葺き屋根とがアンバランスで、「これでいいのか?」感が満載。
 そう、このお堂は、もともと「塔」だったのだ。
 試しに、屋根の上半分を指で隠して、建物部分をよく見てみてほしい。五重塔や三重塔の1層めに見えてくるはずだ。

 妖艶な平安の秘仏《如意輪観音坐像》(国宝)で知られる古刹・観心寺。秘仏がおわす金堂もまた国宝であるが、そのすぐ脇にこのお堂「建掛塔(たてかけのとう)」が立っている。こちらは重文。
 建掛塔は当初、三重塔となるべく着工されたものの、寄進者・楠木正成の討ち死ににより未完に終わってしまった……との伝がある。
 ただし、現存する建掛塔は室町後期・文亀2年(1502)建立とする説が有力。文化庁の表記も、そのようになっている。楠公の没年とは、150年以上もの開きがあるのだ。

 発掘調査時に、塔の下の土壌に焼けた跡が見つかっている。
 どうやら、もとあった塔は焼失し、後世に再建されたらしい。
 再建にあたって「楠公の志を引き継ぎたい」だとかで三重塔を完成させてしまいそうなものだが、エピソードのとおりに初層のみの再現にとどめておくあたり、たいへん興味深いではないか。
 あるいは、資金難などなんらかの理由で未完成に終わった塔に対して、楠公の伝承をひねり出して後付けしたのか……
 いずれにせよ、「建て掛け」であることに、大きな意義がある——そんな「つくりかけの塔」である。

【2】 防府天満宮(山口県防府市)

 「つくりかけの塔」は、山口にもあった。防府天満宮の境内にある「春風楼」だ。
 仏殿ふうの、大きな入母屋造の瓦屋根。その重厚さとは裏腹に、初層には戸がなく、吹きっさらしになっている。
 一見して「なにかありそう」な建物だが、塔の面影がわずかに残る。床下の組物だ。ここだけ見ると、たしかに塔の部材だとわかる。
 文政2年(1819)に五重塔の建立がはじまったものの、資金難で頓挫。残された床下部分を活かして、明治6年(1873)に現在の形に整えられた。
 失敗しても、いつからでもやりなおせる。なんにでもなれる。春風楼のように……なんちって。
 そんな月並みな人生訓はともかく、先人の柔軟な考えには感嘆するばかりである。


【3】 グランドプリンスホテル高輪(東京都品川区)

 いきなり、名門ホテルの名前が登場した。
 グランドプリンスホテル高輪(旧・高輪プリンスホテル)の庭園には、古建築や石造美術がいくつか移設されている。そのなかの「観音堂」も、もとは塔であった。

 建物部分に比べて軒の広がりが大きく、屋根の勾配が小さい。塔らしさを、かなりよく残している。同じようなつくりの階が、この上に2層、3層と累積していっても違和感がない。
 奈良県生駒市の長弓寺に立っていた三重塔の、初層部分である。近世以前の早い段階で上層が失われ、昭和になってから、この地にやってきたのだという。
 長弓寺といえば、軒先のカーブが美しい国宝の本堂で知られているが、その本堂と同時期の鎌倉中期の建立と目されている。

 流出の経緯が判明している。
 本堂の美しい屋根が台風で大破してしまい、修復資金に充てるため、初層だけの塔が売りに出されたのだとか。背に腹は替えられず、流れ流れて品川へ。戦災を免れ、いまもひっそりと立つ。
 東京で奈良を感じたくなったら、ここがわたしのおすすめ。奈良好きは、ぜひ高輪プリンスへ。(つづく

 ※グランドプリンスホテル高輪の観音堂については、このサイトを参考にさせてもらった。



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