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大勾玉展:1 /大田区立郷土博物館

 “大田区の勾玉展” だから「大勾玉展」なのだろうか?
 答えは否。「大恐竜展」と同じ用例の、「大きな」勾玉展である。看板に偽りなく、総出品点数はじつに1500点にものぼる。
 ……ほんとうに「1500点」だ。タイピングミスで、ゼロを余計に足してしまったわけではない。
 初見のときは、わたしも目を疑った。期待を裏切らないボリューム、というか、ここまでくるともう、担当者の多忙ぶりが心配になってくるほどである。
 そんなことも要らぬお節介だと思わせるくらいに、本展はとにかく、熱量に満ち満ちていた。
 解説文が、とくにいい。先行研究や最新の調査結果を集約した、考古学徒のお手本のような緻密さを保ちながら、同時に一般の人にもかろうじて読み解ける程度まで開(ひら)かれたテキストとなっていたのだ。
 区内の宝萊山(ほうらいさん)古墳出土の4つの勾玉を起点として、勾玉のはじめからおわりまでを描こうとする本展。「勾玉展の決定版をやってのけようじゃないか」というギラギラとした気概、さらには担当者の「勾玉だいすき!」という気持ちがにじんでくるような、おそらくこの秋いちばんホットな展示であった。

 館外にまでその熱さが伝播してか、来館者はひっきりなしにやってくる。入場の整理券が不足して急遽準備し、病院の待合室よろしく順次呼び出しをかけ……受付のみなさん、ほんとうにたいへんだ。
 もともと広くはないというのもあるが、展示室内は入場制限時でも混み合っていた。どの展示ケースの前にも、かならず人だかりがある。一点一点が小さくて数が多く、それにキレイなので、立ち止まって見入ってしまうのだろう。自分もそうだった。女性の割合が多いのも特筆すべきか。
 他の区立博物館の展示や考古分野の展示で、こんな会場風景は記憶にない。この館のキラーコンテンツ・馬込在住だった川瀬巴水の展示期間中に匹敵する活気であった。

 それにしても、どうしてこんなに、勾玉は人を惹きつけるのだろう。
 翡翠、瑪瑙、水晶、ガラスといった素材そのものの美しさも多分にあるのだろうけど、なんといっても第一に、あの「かたち」ではなかろうか。
 勾玉をふたつの指で手にとると、指のかたちによく嵌まって、なじむ。掌の上にそっと置けば、もとからそこにあったかのように自然におさまる。
 これほど小さく、なんの意匠も施されない石っころに、見えないなにかがたしかに宿っているのでは。そんなふうに感じられるのだ。それこそ、「石っころ」なんて、呼びたくなくなるくらいに……あのかたちがもつ、ふしぎな力であろう。
 むろん展示では、手に取って確かめることまでは叶わない。
 しかしというか、だからこそ、より手に取りたくなってしまう。
 類似する形の勾玉は、いまも神社だとか、パワーストーンのショップだとかで販売されてはいる。出雲に行けば、門前に専門店だってある。
 けれども、一度でも古代の勾玉を掌中に収めたことがあれば、なびかない。やっぱり、古代の勾玉はよい。
 ガラスケース越しに感触と重さの記憶を投影しながら鑑賞することができるのは、アドバンテージである気もするし、逆にじれったさが増すようにも思われる。
 中国のお金持ちが掌で古代の玉(ぎょく)を弄玩するように、玉とは、みずから触れて愉しみたいものだからである。
 (つづく

 ※写真は、たわわに実った勾玉……ではなく、シロアケビ。「バナナアケビ」ともいうとか

 



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