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【校閲ダヨリ】 vol.74 フィルターバブルとエコーチェンバー


みなさまおつかれさまです。
今回は、最近私が「意識しつつ回避しようとしている」2つの状態を示す言葉、「フィルターバブル」と「エコーチェンバー」についてお話しします。

私の認識では、どちらも近年聞かれるようになった単語です。
そして、恥ずかしながらいままでどちらかというと「どうでも良い」と感じていた言葉でもあります。
しかし、Twitterをはじめた昨年12月以降「もしかしてこれのことか?」と思うことが増え、「この状態が常になってしまうのはどうなのだろう?」と考えるようになったのです。

皆さんそれぞれのスタンスがあり、考え方も異なり、私の考えが腑に落ちないと思われる方もいらっしゃることと思われます。
政策や方針の議論とは異なり、このテーマはあくまで「自分がどう動くか」に結びつくものですので、意見を戦わせるというよりかは「さまざまな考え方に触れる」ことが有益な気がしています。
私にしては珍しい「新語」についての考察ですが、最後までお楽しみいただけましたら幸いです。

さて、そもそものところで、この2つの言葉の意味をまだお話ししておりませんでした。

フィルターバブル」は、「インターネットで、利用者が好ましいと思う情報ばかりが選択的に提示されることにより、思想的に社会から孤立するさまを表す語」(デジタル大辞泉)とされ、アメリカの活動家イーライ・パリサーが自著で唱えた概念です。

サーチエンジンなどの学習機能によって、使う側が望む(と思われる)情報が優先されることで、自然と望まない情報から遠ざかる状態が「泡の膜」に包まれているようだということなのですが、個人的には、『エヴァンゲリオン』シリーズをご存じの方であれば「ATフィールド」のほうがイメージしやすいかなと思います。

エコーチェンバー」は、「反響室」のことで、本記事では「エコーチェンバー現象」を指します。「エコーチェンバー現象」は「SNSにおいて、価値観の似た者同士で交流し、共感し合うことにより、特定の意見や思想が増幅されて影響力をもつ現象」(デジタル大辞泉)と説明されています。

フィルターバブルは検索結果や広告に対するもの、エコーチェンバーはSNSに対するもの?


辞書の記述ではそう捉えられますが、私個人の見解では「実際は両者に明確な境界はなく、相互的に作用している」のではないかなというところで考えています。
例えば、動画型SNSの代表格であるYouTubeでは、自分好みの動画が次々にリコメンドされますし、InstagramでもCMが自分のよく検索するブランドのものが目に入るようになっていますよね。

先述の通り、私はこれまでこの2つについてあまり深く考えることはしていませんでした。
ですが、「経験していなかったか」というと、そんなことはなさそうです。ネットは使っていたので、自分の趣味嗜好に沿った広告が表示されるのも知っていました。(仕事柄さまざまなことを検索するので、あまり役には立たないのですが……)

そんななか、フィルターバブルエコーチェンバーが合わさった、私にとって強烈な体験がTwitterでした。
アカウントを開設した時点では、フォローもフォロワーも0ですよね。
そこから自分の気になるジャンル、例えば出版やデザイン、コピーライティングといったものを選び、有名な人をフォローします。1人フォローすると、関連する何十人かが表示され、「まとめてフォローしますか?」と聞かれます。

この、何十人かが、すでに実質的な「チェンバー(部屋)」なのだと思いました。
私はいわば部外者で、この中に飛び込んだ形になります。
Twitterでは、第三者でも、第一・二の人をフォローしているとやりとりがタイムライン上に流れるのがデフォルトの設定だと思いますが(変えられるかどうかは調べていません)、この状態、さらに言えばその人たち同士での「認め合い」が、私にとっては鮮烈であったのです。

併せて、フィルターバブルの状態も常にあります。自分の関心のあることを呟いている人がリコメンドされる。
もちろん、そこから抜け出そうと全く別のジャンルや、別のチェンバーを訪れることもできるのですが、空き時間になんとなく見ている私では難しいように思えました。

鮮烈なのはわかったけれど、それは初めてだったからなだけでは? 何か問題があるの?


私が覚えた違和感は、「思考や嗜好に対する視点の固着」でした。
インターネットを利用した情報の取得は、基本的には「自分から調べる」という能動的アクションによって成立します。「〜について調べたい」というゴールがあって、そこに向かって寄り道せずに進むイメージです。
Twitterには、いろいろな情報があふれているように思えますが、フィルターバブルの作用によって自分用に取捨選択された情報にアクセスしやすい環境が出来上がっているので、テレビなど他メディアのニュースとは性質が異なるように思われます。
加えて、Twitterの特徴として、「ストレートに事実を伝える投稿が少ない」点があります。
感情や、意思、思想など、発信者の思いが上乗せされるんですよね。


例えば、目の前にある物体について考えるときに、ある人を中心とするチェンバーでは側面に正対して見たときの「三角形」と認識する、別のチェンバーでは上面に正対して見たときの「四角形」として認識する、はたまた立体的に「四角錐」としてとらえるチェンバーもある。
四角錐を「四角錐」と正確に認識できるチェンバーに属しているかどうかは、誰にも分からない
四角錐に関しては立体として認識できたチェンバーも、「少子化問題」や「持続可能な開発」といった別の問題に対してそれができるとは限りません

ここで、「自分できちんと調べ尽くした事柄に関して発信しましょう」とするのは厳しい話だと私は思います。
表現の自由を標榜しているプラットフォームですし、発言は個人の責任に基づいて自由になされるべきと考えるからです。
なので、行動の余地が大きいのは受け取る側なのかなあと。

「とても好きな作家があの社会問題に関してこんなことを言っていた。私もそう思う!」となる場合は本人も考えているのでまあよいのですが、「あの人の言うことには間違いがないから、この問題の本質もそうなんだろう」となってしまうと、考え方がかなり狭まっているように感じます。


先ほどの四角錐の例ではないですが、ある物事を理解しようとするときには複数方向からの情報が必要になることが多いです。
「中学校教師」という職業について理解するためには、「中学生に勉強を教える人」という情報だけでは氷山の一角に過ぎず「大卒だったら誰でもできるんじゃない?」といった浅薄な認識につながってしまう可能性があるんです。
また、喧嘩をしている人たちの間に入るのであれば、両方から話を聞きますよね。
自分の身の回りの出来事であれば自然とできているようなことが、情報がフィルタリングされるインターネットでは、知らず知らずのうちに一方向の視点に固定され、エコーチェンバーによって周囲の多くの人がそれに同調しているように感じてしまうのです。
数の話をするのはあまり好きではないのですが、例えば、フォローリストの中の数人がリツイートをしていて、1万のいいねがついた発信があるとします。すごく大きな影響力を持っていると見えますが、日本の人口比だと約0.0001%、労働人口比でも約0.014%の中での話ということになるんです。

たしかに、ちょっと怖いかも。抜け出す方法ってあるの?


私も「これは怖いな」と思ったので、「自分思考」を保つための方法をいくつか考えてみました。

その1. 自分とは思考のスタンスが異なるアカウントもフォローする。

苦手だったり、自分の弱いところを突いてくる意見は、裏を返せば特効薬となります。

その2. SNSと距離を置く。

下手をするとトイレの中でまで開いてしまうSNSアプリですが、それを本にしてみるとか。

その3. ニュースの仕入れ先をインターネット以外にする。

テレビやラジオ、新聞などがありますが、あまり発信側のコメントのないものがおすすめです。中でも新聞はニュースの経緯や背景、データなどが細かく載るのでよいのですが、偏向気味な新聞社もあるので読み比べてみましょう。

私は2と3をしてみて、だいぶスッキリしてきている感じがあります。

いまや、生活に欠かすことのできないインターネットとSNS。
しかし、自分の思考は自分だけのものです。
裏を返せば、「あの人がああ言っていたから」と遠くの人物を引き合いに出したところで、その人があなたの言動や行動の責任をとってくれるかというと、そんな保証はどこにもないということになりますよね。

判断するための材料は、多いに越したことはないと私は思っています。

この記事が、少しでも皆さんの生きやすさにつながりますように。


それでは、また次回。


参考
デジタル大辞泉』(小学館)


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