見出し画像

【食べ物と思考】アワビ 混合体の美学

先日、友人と伊豆旅行に行ってきた。
本当に楽しい旅行で、言葉に尽くせないのだが、強いて一つ取り上げるならアワビだろう。いや、アワビさんと呼ぼう。

泊まった旅館の晩ご飯にアワビさんの酒蒸しが出た。
小さな鍋に仰向けに寝かされたアワビさん。お酒を注がれるとくすぐったそう身体をよじらせる。健気なものである。まもなくそこが灼熱の地獄に変わるとも知らずに。
ちなみに死後落ちる地獄にも色々な種類があるらしい。熱湯が沸いた大釜に入れられるタイプの地獄は叫喚地獄という地獄で、殺生・盗み・邪淫・飲酒をした者が落ちる地獄である。このアワビさんも海ではやんちゃだったのかもしれない。
給仕をしてくれた中居さんが鍋に蓋をおろし火をつける。南無阿弥陀仏。

さて、他の食事を進めている間に蒸し上がったアワビさんを中居さんが綺麗に切って、バターとレモンを添えて出してくれた。
思えばいつぶりのアワビさんだろうか。よだれが止まらない。きっと僕も地獄に落ちるだろう。でも今だけは・・・。

まず塩で。それからバターやレモンやお醤油で味変しながらアワビさんを堪能する。

美味い。

こちらが食べているのに、逆に包み込まれているような心地である。
シルキーな柔らかい布に包まれたような、あるいは胎内にいるような。

アワビさん、思えば変な生き物だ。構造というものを否定するかのような見た目である。切って見ても体の内と外の違いがほとんどわからない。前も後ろもわからない。

調べてみたら、胃や腸がちゃんとあるらしい。当たり前か。
でも、食べる時、それらは全く区別されることなくアワビさんという一つの全体として口に運ばれていく。
牛や魚を食べるときはそうじゃない。もも肉とか内臓とかそういう部位を僕らは食べている。魚は肉と比べたら曖昧だけど、どこの部分を食べているかがわかりやすいし、大きな魚となればやはり切り分けられた部位を食べることになる。
ところが貝類を食べるとき、僕たちは常に全体を味わうことになる。

哲学者のミシェル・セールによれば生命とは混合体なのだという。
確かに我々は自分の身体を固体物のように思っているが、実際には液体と固体と気体が入り混じった混合体である。
解剖学はそうした本来混合体である身体を切り分けて部分に還元してしまう。僕たちが普段スーパーなどで出会うのは、あらかじめ腑分けされた部分としての肉なのである。

近代科学や資本主義はそうやって物事を分解して部分に還元することで発達してきた。そのような社会で我々が出会うのは部分ばかりである。資本主義の分業体制においては、多くの人が物事の全体像を把握せず、事業や商品の一部とだけ接して働いている。
全体とは混合体であり、それは理解や支配を拒絶するものだ。
あっけなく酒蒸しとなったアワビさんを我々は支配したと言えるだろうか?否。
私たちはアワビさんを部分に還元することができない。だからこそ酒蒸しや刺身といったシンプルな形で味わうしかないのだ。

部分の断片に囲まれた生活の中で突如アワビさんのような混合体としての全体が現れたとき、我々はただその不可思議さを丸ごと受け取ることしかできない。
しかし、物や人との出会いというのは本来そうあるべきなのではないだろうか。
すぐに何かを分析しようとするのは現代人の悪い癖だ。理解し得ないものをただ受け取って味わうこと。そのとき、言葉は不要である。

この記事が参加している募集

ご当地グルメ

イチオシのおいしい一品

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?