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講演録「伊達政宗が生きた時代の日本と世界」

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1 東北大学名誉教授平川新先生の講演録

 前回お示しした學士會会報には,NU7という冊子も同梱されており,ここにも興味深い講演録が記載されていました。

 昨年11月2日に東北大学で行われた,同大名誉教授で宮城学院女子大学学長の平川新先生による,「伊達政宗が生きた時代の日本と世界」という講演録です。

2 伊達政宗が生きた時代の日本と世界の要旨

 この講演録の中では,16世紀後半から17世紀前半を生きた東北地方の戦国大名,伊達政宗による支倉常長の遣欧使節団(1613年~1620年)に至るまでの16世紀の日本と世界情勢の変化と遣欧使節団の動き,及び使節団帰国後の日本の外交政策等が通覧されています。

 なかでも興味深いのは,スペイン・ポルトガルのいわゆるイベリア勢力,カトリックによる布教と植民地化,これに対する時の日本の権力者豊臣秀吉の対応に関する議論です。

 秀吉が,九州征伐の折に,キリシタン大名による教会への土地寄進や,領民に対する改宗強制,神社仏閣の破壊のほか,南蛮諸国における奴隷貿易に激怒したと伝えられることはよく知られた事実です。カトリック勢力による植民地化に対する警戒感もよく語られるところです。

 こうした文脈で,秀吉がスペインのマニラ総督やポルトガルのインド副王に服属要求や恫喝の書簡を送ったことが語られるとき,秀吉の誇大妄想や老耄がセットで示されることが多いような気がします。

3 平川教授の史観

 これに対し,平川教授は,秀吉の動きを,「イベリア勢力の世界侵略に対する秀吉の怒りと対抗心」によるものと解釈し,「イベリア勢力の野心が秀吉の外征意欲を触発し,東アジア全域(中国,朝鮮,琉球,台湾,フィリピン)と南アジア(インド)の征服構想に発展した」とするのです。
 
 こうして始まった秀吉の外征がどのような結果になったかは皆さんもよくご存じのとおりかと思います。

 これについても,平川教授は,西欧列強による日本の植民地化の抑止に大きな効果を発揮したとしています。

4 平川史観の評価

 講演はかなり興味深い内容ですが,これを理解するためには,いくつかの前提知識が必要かと思われます。また,秀吉の外征の評価にあたっては,主として隣国との関係上,デリケートな問題もはらみます。

 まず,前提です。

 1600年ごろの世界人口は5億人前後と推定されています。うち,3億5000万人程度がアジアの人口とされ,中国が1億6000万人程度,日本が1200~2200万人程度と推計されることが多いようです。

 そうすると,当時の世界人口に占める日本の人口の割合は,2~4%に達していたことになります(現在は1.5%程度)。

 また,日本の人口を2200万人と推定した学者は,同時期のヨーロッパ諸国の人口を,イベリア諸国(1050万人),ブリテン諸島(625万人),オランダ(150万人)としており,海洋覇権国家に対して,日本の人口が優位であったことがわかります。

 もっとも,ごく近い時代を除いては,人口面におけるアジア諸国の圧倒的優位は一貫して顕著であり,この点は驚くにあたりません。その背景には,農業生産力に関する問題がありますがここでは割愛します。

 そして,16世紀の日本に関していうと,戦国時代という時代の性質から,動員可能兵力の大きさという特質も挙げることができます。

 古くは正長の土一揆(1428年)に始まり,島原・天草一揆(1637年)までの一揆を見ても明らかなとおり,日本では,この時代,百姓階級が戦闘員として動員されることが通常であったことなどから,動員可能兵力が人口に占める割合が非常に高かったものと思われます。

 ちょうど1600年に行われた関ケ原の戦いでは,直接関ヶ原に参集しなかった部隊をあわせると,東西両軍あわせて動員兵力は軽く20万人を上回ります。

 これに対し,少し後の時代,17世紀前半に欧州を大混乱に陥れた三十年戦争(1618~48年)は,最大にして最後の宗教戦争などとよく呼ばれたりします。しかし,三十年戦争中に行われた会戦は,大きいものでも両軍合わせて5万人程度とみられます。

 こうしたことから,歴史を考える上では,過去の日本の見かけの人口の大きさとともに,あるいはそれ以上に,武装人口の多さも考慮する必要があります。

 兵農分離が固定化した江戸時代ですら,武士の人口は少なくとも全人口の7%程度はあり,戦闘職人口が100万人以上,江戸時代後期なら200万人以上いたことになります(実際には文官化していきましたが。)。成年男子の大半が動員可能兵力であり,かつ,高齢者がほとんどいなかった中近世においては,武装人口はそれ以上であったと理解することも可能でしょう。

 ここで,平川史観にもどりましょう。平川教授は次のように語ります。

 秀吉は朝鮮出兵で計30万人の兵を動員し,一方でフィリピン(スペインの植民地)の総督に服属を要求し,インド(ポルトガルの植民地)への侵攻を大名たちに命じました。
 これらはイベリア勢力に大きな恐怖を与えました。秀吉がマニラやゴアに15万人もの兵を派遣すれば,ひとたまりもないからです。
 イベリア勢力は武力による日本制服の困難を認識しました。朝鮮出兵前に盛んに唱えられていた「布教と武力による日本制服」を諦め,「布教によるキリスト教化と日本支配の実現」に方針転換しました。

 秀吉は,二度の外征に各15万人程度の兵力を動員したと考えられています。
 また,よく知られているように,秀吉の朝鮮への侵攻は,「唐入り」の手始めであり,朝鮮の使節に対し,「征明嚮導」を求めたとされています(征明嚮導が秀吉の真意であったかどうかには争いがありますが。)。明のむこうには,インドが視野に入っていたともいわれます。

 そういう意味では,上述の平川教授の説には肯ずべき点があると思われます。
 もっとも,当時の日本の貧弱な海上輸送能力では,万単位の兵力をルソンやゴアに派遣できたとは思えませんし,そのことは,当時来日していた欧州人にはわかったのではないかとの疑問は残ります。

 海洋進出が本格化した場合に,鉄砲の急速な国産化・量産化に見られるように,南蛮船を手本にした急激な技術革新が起きた可能性は否定はできませんが。

5 「朝鮮出兵」という用語

 もうひとつ,平川教授の講演に出てくる「朝鮮出兵」という用語にもセンシティブな問題が含まれます。
 ある程度年配の方には特に違和感はないでしょうが,近時の教科書には「朝鮮侵略」と表記されることも多いところです。
 このほかにも,文禄・慶長の役という呼称や,壬申・丁酉の倭乱という呼称もあります。

 いずれも2度にわたる秀吉の朝鮮半島への派兵を説明する語句です。用語自体が特定の思想につながるとみられかねない部分があり,非常に扱いづらいところで,前職では気を使った内容です。

 受験指導においては,基本的に教科書の記載に沿った説明をすることが正解筋といえるでしょう。記載が統一されていない場合には,多数の学校が採用している,あるいはコースのターゲット校が採用している教科書に準拠することになるでしょう。

 これに対し,その枠外ではどのように考えるべきでしょうか。

 個人的には,歴史を現代の価値観で色付けすべきではないと思いますので,本来は,当時の用語を使うのが適切かと思います。そうすると,「唐入り」を使うことになるのでしょうが,秀吉隷下の武将たちは実際には唐=中国まで攻め入ってはおらず,誤解を招くおそれがあります。

 そうすると,文禄・慶長の役が一番中道的かとも思いますが,この呼び名も近代に入ってからのものであるほか,「役」の用語にも全く色がないわけではないのでこれで決まりとも言い切れない部分が残ります。

 事程左様に,歴史には難しい問題があります。

6 終わりに

 前記講演録は,次の文で閉じられています。

 朝鮮出兵は隣国を蹂躙しましたが,秀吉以前の外交政策が日本を西欧列強による植民地化から防衛し,「帝国」という尊称をもたらしたという解釈も可能なのです。

 「帝国」という尊称,の部分は本稿では説明を割愛した部分です。講演録にはちゃんとこのくだりの説明もあります。明治期以降の「大日本帝国」のことではないことを念のため申し添えます。

 平川教授の本講演録における視座は非常に興味深く,久々に歴史に関する知的好奇心をくすぐられるものでした。本講演録には同教授の著作である『戦国日本と大航海時代 秀吉・家康・政宗の外交戦略』(平川新著,中公新書,2018年)が参考文献として挙げられており,機会を見つけて読んでみたいと思っています。

 もっとも,既に書いたように,やや強引ではないかと思われる論旨展開もあり,そういう見方もできるのではないかというあたりに収まるのではないかと愚考するところです。

 まあ,著作を拝読せずに,最終的な評価を述べるのは失礼であり,尚早というべきなのでしょうが。

 本稿が,新型コロナの徒然,皆様の暇つぶしになれば幸いです。
 


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