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【短編小説】雨漏りカエル

 男は雨がすこぶる嫌いであった。そのため雨の日になると会社を休み、自宅でゴロゴロと過ごすようにしていた。特に何をするわけでもなく、ただただ雨が降る中外に出たくないという理由で家にいるのである。

 そして先日、梅雨入りがニュースで発表され、男はまとめて有給を取ることにした。朝、いちいち上司に休みますと連絡をするのも面倒くさく、だったら前もって梅雨の間はまるごと休むことにして、ゆっくりと過ごそうというわけだ。上司に連絡すると、そんなに長い間休まれては困ると渋い反応をされたが、そんなことは知ったことではない。男は無理やり上司を納得させた。

 かといってその間、特にやることはない。長期休暇を取ったのだからどこかへ旅行にでも行きたいが、そもそも雨が嫌だから休むのであって、雨の中旅行などしても何も楽しくはない。これだから雨は厄介なのだ。

 テレビを見るのも飽きはじめ、畳の上であおむけになっていると、ポツン、とおでこに水滴が落ちてきた。男は体を起こし天井に目を向けると、天井から水滴がまた一滴、今度は自分の鼻先に落ちてきた。雨漏りである。

 男は急いで、キッチンからコップを持ってくると、水滴が落ちる場所に慎重に置いた。なんということだ。ついに家の中にまで雨が入ってきた。男にとってこれ以上不愉快なことはない。築四十年の木造アパートに入居したことを心から後悔し、今すぐにでも引っ越しをしようと考えたが、この雨の中新しい引っ越し先を探しに行くのも憚られる。これだから雨は嫌なのだ、とまた更にイライラしはじめた。

 部屋には、ポタン、ポタンとコップの中に雨水が当たる音が静かに響く。このコップはもう使えないなと考えながら男はテレビのボリュームを上げて、その不快な音が聞こえないようにした。

 そのあとしばらく、男はまたテレビを見て過ごしていると、横に置いてあるコップから、ボチャン、と少しばかり大きな音が聞こえてきた。コップを見ると、そこには小さな緑色の物体がコップの中にあるのが見えた。男は恐る恐るコップに顔を近づけ確認すると、中には小さな緑色のカエルが入っていた。

 男は驚き、天井の雨漏りをしているところから入ってきたのだろうか、と天井を見てみるがカエルが通れるような穴はない。もう一度コップを覗くと、雨水がたまったコップの中で、カエルはなんともいえない表情をしている。

 男はすぐにこのカエルを外に逃がしてやろうと思ったが、いや待てよ、退屈しのぎにはちょうどいいかもしれないなと思いとどまり、そのまま少し観察をしてみることにした

 カエルは、コップの底で体の半分だけ水に浸かっており、ポツンポツンと一定のリズムでカエルの背中に水滴が落ちてくる。カエルの表情はなおも何を考えているのかわからない、不思議なかたちをしていた。

 男が試しにコップをコツンと指でつついてやると、カエルはピクリ、と一瞬体を緊張させ、表情は一切変わっていないにも関わらず今何が起こったのかを神妙に考え、次に来る衝撃に備えているかのような、そのような印象を男に感じさせた。

 これはなかなか面白いな、と男はそのままカエルをぼうっと観察し続けた。カエルは、特に動き回ることもなく表情もほとんど変わらないが、それでもなぜか男は飽きることなく、こいつは今どんなことを考えているのだろうか、と自分で想像をして楽しんだ。

 そのまま日が暮れ、外の雨が止みはじめた。そして雨漏りもなくなり、カエルの背中に水滴が落ちなくなった。

 するとどうだろう。さっきよりもカエルの元気がなくなっているような気がする。表情も体勢も変わっていないが、男にはそれがわかった。少しづつ衰弱していっているのが、カエルの真っ黒い瞳を見て感じ取れるのだ。

「どうした? どこか悪いのか?」男がそう語りかけるが、カエルは物を言わない。もしかしたらたまった雨水がよくないのかもしれないと男は考え、カエルの入ったコップの雨水を捨て、代わりに少しだけ水道水を足してやった。しかし、カエルはますます元気がなくなり、もう少しで死にかけてしまうのではないかという顔色になった。

 次に、男はお腹を空かしているのかと考え、カエルは何を食べるかを調べようとしていると、外からまたザーザーと雨が降る音が聞こえてきた。するとまた天井の同じところから水滴が垂れはじめ、男はすぐにカエルの入ったコップをもとの場所に戻した。

 ポツン、ポツンとまたカエルの背中に水滴が落ちる。カエルの顔を覗いてみると、心なしかさっきよりも元気になっているような気がする。水滴が落ちるたびに、カエルの表情は緩み、幸福感で包まれている。そんな風に男には見える。

 もしかしたらこの新鮮な雨水がカエルの元気の源なのかもしれない、と男は直観的にそう思った。理屈はよくわからないが、カエルのこの表情を見てそれがなんとなくわかったのだ。

 男はそのまま布団をコップの横に敷き、雨漏りがなくならないかを見守りながら、静かに眠りについた。

 朝、目を覚まし、コップを覗いてみると、雨水がコップの半分くらいまでたまっており、カエルはコップの縁までよじ登っていた。このカエルはどうやら水中にはいたくないらしい。カエルの腹は白く艶やかな色をしており、そこが男を朝からほっこりとした気持ちにさせた。男はそのままカエルが落ちないようにコップをキッチンまで持っていき、たまった雨水を流しに捨て、また雨漏りをしているところまで持っていくと、カエルは安心したかのようにするするとコップの底まで戻っていき、またなんとも言えない表情をするのである。そして男はそこから一日中カエルを観察し、雨水がたまったら捨ててやり、またもとの場所に戻してやるといった生活をつづけた。

 それから一週間が過ぎた。幸運なことに雨は一週間降り続け、雨漏りが絶えることはことはなく、カエルは元気にコップの底でじっとしていた。じっとはしているが、雨漏りのおかげで元気であることは男にはわかった。男は時折カエルに話しかけ、カエルが自分の話を聞いてどのようなことを考えているのかを想像し楽しんだため、退屈はしなかった。

 しかし梅雨といえども何日かは雨が降らない日もある。そんな日はカエルの元気もなく、男が語りかけても、お前の話なんか聞いていられるか、といった具合の表情でじっと耐え忍んでいるのが、男には見ていてつらかった。しかし雨は男の力ではどうしようもない。そばで見守るしかなく、次に雨が降るのはいつだ、と天気予報をチェックして、やきもきするのが関の山だった。ここまで雨が降ることを願ったのは生まれて初めてのことで、男にとってもそれは衝撃的なことであった。

 雨が降ったり止んだり、雨漏りになったりならなかったりを繰り返していくうちに、ついに梅雨の時期が終わりを告げてしまった。朝のニュースで女性のアナウンサーがにこやかな表情で梅雨明けを発表しているのを見て、男は殺意さえ抱いた。どうしてくれるんだ。雨が降らなかったらこいつはどうやって生きていけばいいんだ。うちの雨漏りがなくなったらこいつは死んでしまうかもしれないんだぞ。テレビに向かって怒りを爆発させても何も解決はしないのはわかっているのだが、やるせない気持ちがこみ上げてくる。
しだいに衰弱していくカエルをみて、なんとか元気にならないものかと、ペットショップで生きたコオロギや芋虫などを買ってきてカエルに食べさせようとしたが、カエルは見向きもしようとしなかった。

 こうなったら医者に見せたほうがいい、と男は思い立ち、カエルの入ったコップを片手に家を出た。すると突然、カエルがするするとコップの縁までよじ登ったかと思うと、ピョン、とコップの外に出てきてしまった。

「おい、待てよ」男が慌ててカエルに向かって叫ぶと、カエルはちらりとこちらを振り向き、いつものなんとも言えない表情を見せたかと思うと、そのまま草むらに向かって行ってしまった。

 男はコップを片手に、カエルが消えていった草むらを、ただ茫然と眺めることしかできなかった。

 その後、カエルがいなくなってから、男はまた普通に会社に出社するようになった。長い間休んでいたために仕事の感がにぶり、カエルのことは忘れ、仕事に集中するようになった。

 しかし時折雨が降った日にはカエルのことを思い出し、畳の上にコップを置いては、最後のあのカエルの表情は、一体何を表していたのだろうかと考えながら、楽しく雨の日を過ごすのだ。

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