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007_「言語で思考し続ける力」と「可能性を想起する力」


可能性の想起とは

前稿までにおいて「言語で思考し続ける力」を構成する力として「論理を理解する力」「原理を理解する力」という力について説明してきましたが、本稿ではもう一つ「可能性を想起する力」というものを掲げ、その輪郭を把握しておこうと思います。

この「可能性を想起する力」は、一般には「仮説形成力」といわれ、さらに格好をつけずに表現すれば「当て推量の力」ともいわれるものですが、実際にこの力が脳中で駆動しているあり様を実感できるよう、あえて「可能性を想起する力」と表現して、話を進めてみたいと思います。

私たちは、日々、次々と眼前に現れる多種多様で千差万別な諸事象と向かい合って生きています。そして、個々の事象に関わる行動に入ろうとする際には、まず、その行動によって当該の事象に関わる事情がどのように変化し、推移していくのかについての可能性あるいは結果を想起し、その上で、自身にとって最も好ましい可能性あるいは結果を齎すであろう行動を選択しています。

この選択の前提となる「可能性の想起」にはもちろん「言語で思考し続ける力」が関わっています。

結果としておそらくこのような事態が生起するだろう、否、別の条件をも考慮すればこのような事態も、否、さらにこちら側のこの要素の変化も射程に入れればこのような事態も生起するに違いない……といったように、能う限り変数の動態を言語でトレースし続け、事象の結果をシミュレートしていく過程は「言語で思考し続ける力」が統制しています。

しかし、このようなかたちで言語で思考し続けるには、つまり、可能性を想起し続けるためには、言語を論理に従い操作し続ける「論理を理解する力」の他に、何よりもまずは、可能性を脳中に胎動させる原初の力が必要となります。そして「可能性を想起する力」とは、この原初の力に相当します。

例えば、数学の問題を解答する際に、この問題Aは、あの問題Bと全く異なる対象が主題となっているものの、Bで用いる思考法を適用してみれば、未だ明らかではないBとの相似性から解けるかもしれない、といったことを想起するケースや、社会事象を考察する際に、この事象Cは例の事象Dと全く異なる領域に属しているものの、Dへの切り込み方を適用してみれば、Cの正体が浮かび上がるかもしれない、といったことを想起するケース、これらのようなケースで駆動する力が「可能性を想起する力」です。

事象の構造モデルの蓄積

しかし、このような力は「言語で思考し続ける力」を構成する力の一つとしての「論理を理解する力」とは、それを獲得するという側面においては、大分異なる性格を有しています。

まず「論理を理解する力」は、前稿までで見てきたように「言葉と言葉の連関を理解する力」と定義すれば、それは文章における言葉と言葉の連関が齎す意味を捉える訓練——これは真である前提から真である結論を導出する、いわゆる命題論理学で扱われる「演繹(えんえき)」を中心とする訓練ですが、この演繹については稿を改めます——を重ねれば、相応に獲得しうる力と私は考えています。

これに対して「可能性を想起する力」は、眼前の事象の構造や、その推移、関係する事柄などを把握するにあたり、眼前の事象との関連がほとんど見出されない事象を想起、あるいは閃くことにより、その両者がいかなる関係にあるかを、補助線を描いて把握していくという思考です。

ところが、先の数学や社会事象の例でも見たように、眼前の事象の構造等についての可能性を閃くためには、事前に脳中に様々な事象を構造のレベルで把握した観念としての「事象の構造モデル」のようなものを蓄積して置かねばなりません。つまり、この「事象の構造モデル」がなければ、そもそも眼前の事象の構造等を思考する足掛かりが得られないのです。

簡単な事例として、海抜高度の高い山岳地帯にある断層に魚類の化石が含まれている、という事象について、なぜ、そのような海から離れた山岳地帯に海中に生息していた魚の化石があるのか? を明らかにしようとする事例を挙げてみましょう。

この事例においては、その地帯は、化石となっている魚が生存していた時代には海中にあったという事象を、まずは可能性として閃かなければなりません。その上で、この両事象はいかなる関係にあるのかを考えると、魚が泳ぐ海中にあったその地域は、やがて地殻の変動により海上に隆起して山岳地帯となり、結果として、かつて泳いでいた魚の化石が、海から離れた山岳地帯の只中に姿を現したという関係にあるということを、幾何学の問題を補助線を描きながら解いていくように明らかにしていくことになります。

海から離れた山岳地域の断層に魚の化石があることが、眼前の事象、その地域が太古において海中であったことが、眼前の事象と関わりが見出されない事象であり、そして、地殻変動による隆起という見解が、事象の構造モデルとして両者の関係についての可能性を想起せしめることにより、眼前の事象である「海から離れた山岳地域の断層に魚の化石があること」の謎が解けることになるのです。

探偵=可能性想起のプロフェッショナル

ところで、既にお気づきかと思われますが、このような「可能性を想起する力」のめくるめく応酬が展開する古典的なドラマが、推理小説です。いわずと知れたシャーロック・ホームズの推理譚における、ホームズとワトソンの会話を眺めてみますと、

「では、きみはこの帽子からどんな結論を引き出したのだい」

彼を帽子をひろいあげると、一癖ありげな彼独特の内観的な態度で帽子をじっとながめた。それからいった。

「帽子が古すぎてよくわからないが、それでも、二、三の点ではまちがいない推測がくだせるし、そのほかにもおそらく十中八、九確実だとおもえる推理ができそうだ。まず、これを見ただけで、この持ち主がひじょうに賢い男で、また、いまは落ちぶれているが、二、三年まえにはかなり裕福だったということがわかる。彼はむかしは思慮深かったが、いまはそれほどでもなくて、道義心も退歩しだしているようだ。彼が落ち目になっていることと考えあわせると、なにか悪い習慣、たぶん飲酒癖にでもそまりだしたんだな。細君が彼を愛さなくなったという明白な事実も、これで説明がつく」

「よくもそんな! ホームズ君」

「しかし、まだある程度、自尊心を持っている」ホームズは私の抗議にとんじゃくしなかった。

「彼は座業をしていて、めったに外出せず、ひじょうに運動不足で、としごろは中年、半白の頭を、二、三日まえに散髪したばかりで、ライム香油入りのクリームを塗っている。以上の事実はこの帽子からははっきり推測できるね。それから余談になるかもしれないが、この男の家にはガスが引いてないということもいえそうだ」

「それこそ冗談だろう、ホームズ」

「冗談なものか。これだけ結論をいってやって、どうしてそうなるかわからないのかい」

コナン・ドイル/阿部知二訳『シャーロック・ホームズの冒険』東京創元社

上の引用においてホームズは、一つの帽子に含まれているいくつかの特徴から、その持ち主のいくつかの属性についての可能性を想起しています。つまり「一つの帽子に含まれているいくつかの特徴」という眼前の事象から、通常では眼前の事象との関連がほとんど見出されない事象である「持ち主のいくつかの属性」を想起した上で、その両者がいかなる関係にあるかを、言語による論理的な演繹——前提を真であると仮定した場合において、結論が必ず真となるような推論——を用いて、ワトソンに説明している訳です。

生き様が可能性を想起する力を育む

さて、本稿における最大の論点は、以上でその輪郭を明らかにしようとしてきた「可能性を想起する力」を私たちがどのように培うかですが、この問いに対する応答は、本当に難しい。

この問いをより卑近に表現すれば「この世界における因果の道理を明確に認識する鋭敏な知性を獲得するにはどうしたらいいか」(全然卑近に表現できていませんね)というものになりますが、「可能性を想起する力」は、一人ひとりが自身の生を営んでいく道程で邂逅するありとあらゆる事象や出来事と、それらから得られる経験と思考——人類がここまで積み上げてきた自然科学、社会学の学習経験、あらゆる職業における各々の職務を十全に遂行するために不可欠となる経験と思考、自身で実際に接し合うあらゆる他者との関わり合いの経験と思考——から謙虚に、慎重に学ぶことがなければ決して獲得することのできない洞察力である、ということだけは、確信することができます。

できるだけ多くの事象に好奇心を燃やし、興味を持ち続け、積極的に出会うこと。そしてその経験を成立させている諸事象の「構造」について、常に言語で思考し続け、理解するよう心がけること。このように、自身を取り巻く現実世界との言語を介しての積極的な交流こそが、人の「可能性を想起する力」を育む、と私は考えます。

そういえば、浦沢直樹・長崎尚志版の『PLUTO』で、電子頭脳の権威である天馬博士も、電子頭脳というものについて、次のように語っていました。

電子頭脳とは、作るものではない。育てるものだ。深い挫折……悲しみ……それらが電子頭脳を育てるのだ。

浦沢直樹・手塚治虫・長崎尚志『PLUTO 004』小学館

いやいや、しかしだね、そのような抽象的な精神の指導原理のようなものを唱えていても、それは結局「勉強すれば賢くなる」というような一般論を出ないじゃないか、もっと手応えのある実用的な方法論が欲しいじゃないか、というご意見がきこえてきそうです。

しかしながら、この「可能性を想起する力」は、決して他者から受動的に授けられるものではなく、私たち一人ひとりの実生活における自発的な精神鍛錬がなければ得られないものだ、ということです。この事実から目を逸らして、安易なノウハウ的手法を無責任に唱導することは、決して行ってはなりません。

最後にもう一度、シャーロック・ホームズ氏にご登壇いただきましょう。

理想的な推理家というものは、さまざまの意味を含む一つの事実を示されると、そこにいたるまでの一連の出来事をことごとく推察するだけではなく、さらにまたその事実から発展してゆく将来の結果もみな見とおせるものだ。キューヴィエが一本の骨を観察しただけでその動物の全神像を正確にえがきだせたように、連続した事件の一つの環を十分に理解することができた観察者は、その前後につらなる出来事もとうぜん正確にかたれるはずだ。われわれはまだ結論をしっかりつかんでいないが、それは推理によってのみ到達できるものなのだ。人々が感覚をはたらかせて解決しようとしてことごとく挫折した事件も、書斎の中で解けるかもしれないのだ。だが、この技術を高度に発揮するためには、推理家は、知りえた事実をのこらず活用するだけの力をもたなければならず、そしてきみもすぐにわかるだろうように、それにはまず、あらゆる知識をあらかじめ持っていることが必要となるのだが、これは高等教育と百科事典とにめぐまれた今日でも、どちらかといえばまれな素養といわねばなるまい。しかし自分の仕事のうえに必要だと思える範囲内で、あらゆる知識を身につけるのは、絶対不可能なことではない。ぼくの場合としても、その努力をしてきた。

コナン・ドイル/阿部知二訳『シャーロック・ホームズの冒険』東京創元社

以上、本稿では「言語で思考し続ける力」を構成する力としての「可能性を想起する力」について述べました。

実は、この「可能性を想起する力」は、米国の哲学者・論理学者であるチャールズ・サンダース・パースによって「アブダクション」(abduction:遡行推測)と名付けられ、理論的な説明を施されているのですが、この概念については、別稿でまた論じたいと思います。

本稿までで「言語で思考し続ける力」とそれを構成するいくつかの力の輪郭について述べてきましたが、次稿からは、それらの力を培うための、さらに具体的な方法論に入っていければと思います。

などと言いつつも、上手くいくかなぁ。結構、心配です。

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