見出し画像

苦くて甘い「乾杯」を、一緒に。

あのお酒とあの思い出

ハタチを迎えてから10年が経った。10年もあれば、大学や地元、会社や旅先でのいろんな「お酒」の思い出がそれなりに降り積もっている。

学生の懐にもやさしい値段の飲み放題のお店で、おそるおそる飲んだカシスオレンジ。だだっ広い河原でバーベキューをしながら、喉に流し込んだ缶チューハイ。寒い冬の恒例だった誰かの家での鍋パーティーに、必ずといっていいほどあった梅酒。たまに帰る実家で「せっかく季世が帰ってきたから」と、家族が用意してくれていた地元の日本酒やワイン。社会人になって、可愛がっていただいたお客様から贈られた年代物のウイスキー。

・・・と、まあ、いろんなお酒の数だけ、いろんな人との思い出があるのだけれど、私には圧倒的に「ビール」の思い出が少ない。お酒は好きだが、ビールにはまだどうしても苦手意識があるのだ。

でも数少ない「ビール」の思い出は、その少なさゆえか、それともその思い出の強烈さゆえか、私のお酒の記憶の中で、とりわけ光って見える。それはすべて、瀬戸内海の小さな島での思い出だ。

西へ、島へ

画像1

その島に出会ったのは本当に偶然だった。就職活動をなんとか終え、社会人になる前に、と全国のあちらこちらをふらふらと旅していた頃。それまでずっと東北で暮らしていた私は、特に西に心惹かれた。

当時の私にとっては、大阪弁であろうと広島弁であろうとすべて「関西弁」。そのくらい西日本は輪郭が曖昧な憧れの地だったのだ。そんな旅の途中に、私は生まれて初めて瀬戸内海と出会った。

海や島が日常に当たり前にある生活。本州の瀬戸内海沿いをたどっていけば、自ずとそれが目に入る。観光目的の海のレジャーや船ではなく、生活の中にある海や定期船。町を歩けば、目の端にもしくは視界いっぱいに空と海と島が映る。

「そこにはどんな暮らしがあるんだろう?」

単純にそう思った私は旅のあと、パソコンを開いた。当時は企業や地域でのインターン−ある程度の期間そのコミュニティに滞在して何かする−というものが徐々に認知され始めた頃ではなかったかと思う。私自身や周りでもインターンを経験している学生は一定数いた。だからだろうか、無意識の内に打ち込んだキーワードは、

「瀬戸内海 離島 インターン」。

そしてヒットしたのが、瀬戸内海ど真ん中に位置する六島(むしま)での1ヶ月の住み込みのインターンだった。

画像2

検索から数ヶ月後の夏。私は六島へと向かった。初めて見た六島は、深い海の青と、突き抜けるような空の青の真ん中に浮かぶ、木々の緑がまぶしい小さな島だった。

近づくにつれ、山肌に沿って立ち並ぶ家々の形がはっきりと見えてくる。私が生まれ育った街のニュータウンのような真新しい家ではなく、きっと私が生まれるずっと前からそこにあったような、島と人の記憶を丸ごと抱えたような家並み。

六島が大学生のインターンを受け入れていたのは、その数年前からだった。美しいこの小さな島は、高齢化率も空き家率も50%超え、人口は80人弱で過疎化が進んでいた。そんな中、外からの学生を受け入れ、学生の視点をまちづくりに活かそうと始まったのがインターン事業だったのだ。

「高齢化率も空き家率も50%超え」。一体どんな島なのか。そもそも島で暮らすとはどういうことなのか。どの1日もそれまでの日常とは10倍くらい密度の違う私の1ヶ月がその日から始まった。

離島ライフ、そしてビールの試練

私の他にインターン生は3人。男女それぞれ、島の空き家をお借りして暮らす。みんなで相談したりそれぞれスケジュールを立てたりしながら、島のあちこちを回って島の人たちと過ごした。

島での日々はびっくりすることだらけだった。スーパーはない。コンビニももちろんない。病院もない。その代わり、時折、診療船がやってくる。信号もない。移動手段はもっぱら徒歩か自転車だ。

小学校は全校生徒が6人(当時)だったので、2つ以上の学年が一緒の教室で勉強する複式学級。中学校からはスクールボート(!)で島外の学校へ通う。海が荒れたら島に船は来ない。島の外で用事があったとしても、船以外の代替手段はないから仕方がないのだ。

画像3

インターンの日誌を公民館の一室で書いていると、波の音が聞こえてくる。わざわざBGMの選曲に悩むまでもない。朝日も夕日も島では都会以上に迫力がある。私にとってはびっくりするくらいの星空も、島の人からすれば「なんてことない。もっと綺麗に見えるときだってある」。そういう、何もかもが今までの私の常識と違った。

そして島の人たちのパワフルなこと。たとえば、山の草刈り。大学生インターンの私たちが山に登るだけでヘロヘロになっている中、いわゆる「高齢者」の島のお父さんたちは機材を持って、丁寧かつ素早く作業を進めていく。ひょろっちい私なんか戦力外どころか足手まといだったと思う。虫刺されを甘く見て、50箇所以上刺されては痛みにひいひい言っていた。

たとえば、料理。島のお父さん・お母さんたちも、さすが島暮らし。海との付き合い方をよくよく心得ていて、どこからともなくサザエやタイなどの食材を自分で調達してくると、パパッと美味しい料理を魔法のように作り出す。もちろん本業の漁師さんもいるので当たり前といえば当たり前なのかもしれないが。

私はといえば、釣り具をお借りして海に放って見るものの、見当違いな方向に振り回される始末。海の獲物、どころか近くで釣りをしていた島のお母さんの帽子を釣り上げてしまう、なんてこともあった(お母さん、本当にごめんなさい)。

たとえば、泳ぎ。島の小学校では水泳の授業の舞台はプールなんかじゃない。目の前の海だ。子どもたちはみんな泳ぎ上手で、危ないクラゲにもすぐ気づく。かと思えば、タコを平気で捕まえてきたりする。

内陸育ちの、少し都会暮らしに慣れた私よりも、島の子どもたちの方がよっぽどサバイバル能力が高かった・・・。調子に乗って海に飛び込み、おぼれかけた私を助けてくれた子どもたちは本当に命の恩人だ。

画像4

そういう、コンビニも、もちろんカフェやレストラン、バーもない島だったけれど、島の人たちの「生きるチカラ」は私とは桁違いだったように思う。

そんな島の名物の一つは通称「ドラム缶会議」だった。夕方を過ぎると、海辺にあるドラム缶の周りに島の人が集まってくるのだ。ただのドラム缶と侮るなかれ。このドラム缶を中心にテントやテーブル・ベンチ、冷蔵庫(!)が並んでおり、島の人たちはドラム缶に火をくべながら、お酒を飲みかわすのだった。

画像6

市販のおつまみを持ち寄ることもあったけれど、そこはさすが島、誰かがその日の釣果をその場でさばいて振舞うなんてこともよくあった。そして飲み物は大抵、冷蔵庫にあるビール。そう、ビールだった・・・。今も昔も私の苦手なお酒の筆頭にあるビール。これは私にとって一種の試練だった。大袈裟と思われるかもしれないけど。

とはいえ、郷に入っては郷に従え。勧めていただいているのに無下に断るのも申し訳ない・・・。ということで島ではビールで乾杯する毎日だった。

でもやっぱりビールは苦かった。いつも苦かった、のだけれど、時間と共に表情を変えていく目の前いっぱいに広がる海と空、私が日々しでかした失敗の数々を笑い飛ばしてくれる島の人たちとの会話、海の幸・山の幸、そういうもの全部ひっくるめて思い出すと、あの苦さはしあわせな苦さだった。そう思う。

画像7

離島ビール革命

その後、私は島での生活を終え、大学を卒業し、東京で社会人になった。島とは180度違う生活だ。六島に比べたら、東京は人で溢れ返っている。島の人口約80人なんて、山手線の一車両に楽々と収まってしまう。マンションの隣に誰が住んでいるか知らないことなんてザラだ。島では1ヶ月でほとんどの人と顔見知りになったのに。

どっちがいいとか悪いとかではなく、「同じ日本でもこんなにも違う」ということを六島での生活があったからこそ私は理解できたような気がする。

社会人になっても私は相変わらずビールとはほぼ無縁に過ごしていた。だって、苦いんだもの。ただ、六島との繋がりは細々とあって、六島で知り合ったお父さん・お母さんのFacebookの投稿を眺めては、ドラム缶会議や島での日々を懐かしく思い出していた。

そして私が六島を離れていた数年のあいだに島に革命が起きた。なんと島にクラフトビールの醸造所ができたのだ。あの六島に!醸造所を作ったのは、島に孫ターンしてきたお兄さん・竜平さんだ。私が島でインターンしていた当時も帰省してきていて、よくお世話になった。

でもどうして六島でビールなのか。よくよく聞いてみると、六島は、昔は島一面、麦の島だったのだそう。山のてっぺんから裾野にかけて、収穫の時期には黄金の麦がなびいていたらしい。そして、今も続いているドラム缶会議。竜平さんも学生の時、ドラム缶会議につかまって、初めてそこでビールを飲み、その時にもらった、のどごし生の味を忘れられなかったのだという。だからこそ竜平さんは島で自ら麦の栽培を再開し、島に醸造所を作ることにした・・・。

六島麦畑

島にそうした変化があったことを知りつつも、なかなか再訪できないまま数年が過ぎ、昨年、私は島に数年ぶりに「里帰り」した。すべてが相変わらず・・・という訳ではもちろんなく、島も私もいろいろ変わっていた。けれどドラム缶会議は相変わらずあって、島では、そして島以外でも竜平さんが作ったビールがじわじわと人気になっていた。

「まあ、飲んでってよ」

そう竜平さんに誘われ飲んだビールは、ほんのり苦く、けれど甘く、そしておいしかった。時間が私の味覚を変えたのか、六島だと私はビールをおいしく飲めるのか、それはわからない。きっと後者なんじゃないかなと思うけれど。

六島ビールと海

コロナの影響で、六島の今年のインターンは遠隔になったようだ。ただ、こうした状況下だからこそか、今年は六島の皆さんと歴代インターン生をつないでオンライン同窓会が開催されることになった。今から楽しみでしょうがない。さらに楽しみなのは、六島浜醸造所で作られたビールが通販で買えること(好評すぎて今は売り切れみたいだけれど・・・)。

「乾杯」の一瞬は自分も含めた誰かのために

オトナになって、自分の地元にも六島にも、なかなか足を運ぶことはなくなった。コロナが猛威を奮っている今は「できなくなった」という方が近いのかもしれない。

「今度いつ行けるんだろう。会えるんだろう。」

その気になれば、いつでも行けると思っていた。いつでも会えると、そう思っていた。でもそうじゃなかった。物事は自分の思い通りになることばかりではないと、自分は周りの人や自然に生かされているのだと、六島での日々は私にあれほど教えてくれたのに。

ただ、コロナで在宅になったおかげで、私はまた自然に対して少し敏感になったように思う。今までは、ビルに篭って仕事、地下鉄に揺られて移動ばかりしていたけれど、自宅では窓に向かって仕事をしているので、雲の流れ、太陽の動きがよくわかるのだ。

一日の終わりに、ベランダに出て夜空をボーッと眺めながら一杯やることもある。そうしていると、日々の気温や湿度、日の長さの変化を肌で感じる。今まで時間に追われて思い出さずにいた人のことを想う時間も、少し増えた。

だからこそこれからは、余計に一瞬一瞬を大切にしようと思う。「乾杯」と画面越しにでも誰かと言い合える瞬間を。自分自身も含めた誰かを想って「乾杯」するその一瞬を。

画像10


この記事が受賞したコンテスト

ありがとうございます。いつかの帰り道に花束かポストカードでも買って帰りたいと思います。