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心が躍動する出逢い

「はじめに」からいきなり

心が躍動するような本がある。

著者の一人として申せば

「はじめに」「まえがき」「序」は

一刀両断の覚悟で挑むもので、

その一冊に込めたすべてを凝縮して記すものです。

でも、だから、それだけに、

「はじめに」で期待が薄れることもあるわけです。

この本は、期待以上!!でした。

今回は、おこがましいことですが

過去三〇年あまり、

同じ思いを抱えた人が存在したという感動が

まず、ありました。

「はじめに」を全文引用したいくらいですが

私が常々セミナーなどで語ってきたことと

通じ合うところを抜粋します。

まず、前提として著者の松岡正剛さんは

1970年代の終わり頃、「たらこスパゲッティ」に

象徴されるような「新たな日本らしい文化」が登場し

さらにコム・デ・ギャルソンやヨージ・ヤマモトなど

日本人としてのモードが世界を一世風靡したこと等々から

「日本はなんとかなる」と感じていた。

それが、80年代になると、がっくりと低迷した、というのです。

そうです、バブルの頃です。

私はあちこちで

「一番辛かったのはバブル時代。

 日本はもう終わったと感じて亡命を願った。

 でも、亡命したところで日本人である

 という宿命からは逃れられないので、

 それならば日本人として生きていこうと決心した」

ということを語っています。

たいていの人は、珍しそうに私を見ますが

松岡氏はどうやら同じ感慨を抱いていたようです。

さらに十年後、IT革命の波に乗り

持ち直したように見えるものの、

新自由主義の邁進やグローバル資本主義に席巻される

マネー主義により、本質が崩れていると

氏は見ているわけです。

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日本の哲学が浮上するということはなかなか起こりません。

Jポップや日本アニメや日本現代アートに

何がひそんでいるのか、そこをあきらかにするための

日本文化や哲学はほとんど解説されはしなかったのです。

これはいったん

『愚管抄』や『五輪書』や『茶の本』や『夜明け前』に

戻るしかないだろうと思えました。

(以上引用)

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私はここまで理路整然とした理解は出来ていませんでしたが

講座で『茶の本』を取り入れているのも

『愚管抄』をやたらと参考文献にするのも

直感的に氏の言わんとするところを

感じていたからなのだろうと、思いました。

本書で松岡氏は、日本文化とは何かということを

あらためて、新たな視点で語ろうとしています。

そのうえで、

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日本文化はワビとかサビとかばかり言って、

どうもむつかしいといふうに言われてきました。

だからわかりやすく説明してほしいとよく頼まれます。

しかし、この要望に応える気はありません。

断言しますが、日本文化はハイコンテキストで、

一見、わかりにくいと見える文脈や表現にこそ

真骨頂があるのです。

わかりやすさを求めればいいというものではありません。

(※ここ、膝を思いっきり打ちまくるところ)

空海の書、定家の和歌、道元の禅、

世阿弥の能、長次郎の茶碗、芭蕉の俳諧、

近松の人形浄瑠璃、応挙の絵、宣長の国学、

鴎外の小説、劉生の少女像に

何か感じるものがあるというなら、

わかりやすくしようなどとは思わないことです。

(そうだ!そうだ!=石川)

彼らが放った「間架結構」「有心」「朕兆未萌」

「時分の花」「面影」「さび」「もどき」「古意」

「簡浄」「美体」などというコンセプトそのままに

日本文化を会得していくべきです。

(中略)

いつのまにか日本文化というと

「わび・さび・フジヤマ・巨人の星・スーパーマリオ」に

寄りかかってしまったのです。

それでもかまいませんが、

それなら村田珠光の『心の文』や

九鬼周造の『「いき」の構造』や

柳宗悦の『民芸とは何か』や

岩下尚史の『芸者論』や中村昇の『落語哲学』は

ちゃんと読んだほうがいい。

(賛成!!賛成!!=石川)

安易な日本論ほど日本をミスリードしています。

本書がその歯止めの一助になればと思っています。

以上、『日本文化の核心「ジャパン・スタイル」を読み説く』松岡正剛著 講談社現代新書より引用

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いやー、なんか朝からスカッとした。

ちょっと話は逸れますが、

だいたい、なんでもかんでも

「わかりたがる」というあり方の浅ましさに

いい加減気がついた方が良いのです。

そして、「そうか、わかった!」と思った時の自分ほど

怪しいと疑って掛からないとならない。

ボタンの掛け違いは、たいていそこから生じるし

人と人との争いも、「わかった」ところから

実は始まると私は思っている。

「わかり合える」というのは錯覚です。

そういう気になれるだけのこと。

だから、「わかり合えていたはずなのになぜ?!」

という悲憤が出てきて、相手を攻撃することになる。

わからないことをわかる。

自分の事もわからなければ

相手のこともわからない。

わかろうと努めることが尊いのであって

わかったことが偉いのではないんですよね。

・・・・という心のありようになると

かなり人間関係が楽になり、

従って生きるのが楽になります。

と、いうわけで、若干最後は変化球でしたが

無理に解ろうとしないで

同書を読み進めようと思います

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