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『なんちゃってスポーツクラブ トレーナー編②』

 大学3年5月頃、約半年バックレたバイト先のスポーツクラブに、ばったり会ったエアロビのインストラクターH山さんに連れられて出戻った後の話です。東武東上線の鶴ヶ島駅より徒歩2-3分ってところに『OAK2/オークツー』は新設されました。そこにオープニングスタッフとして働かせてもらえることになったわけで。スタッフ集まっての顔合わせ的なミーティングが開かれました。ほとんどが鶴ヶ島での新規採用の中、社員さんは以前から気ごころ知れたH川さんを中心に知った顔もチラホラ。バイトも数人川越から移動してきたメンツもいる中〝バックレ出戻り〟の俺も白々しく、ちょっと先輩面での参加。正直微妙な心境でした。そんな初顔合わせの中、驚いたことに新規バイトメンツの中に知った顔がチラホラ。当時所属していた遊びサークル(以前の話で出てきた『スポーツ大東』とは別のサークルです)の後輩が何人か採用されていたらしく、向こうもびっくり顔。
 ちなみに、この遊びサークルは『スキー&テニス』をメインと謳っており、一見ナンパなサークルでした。しかしながら一見としたのは、このサークル、確かにテニスは週一でコート借りてテニスをしていたようですが、その練習に集まる人数よりも、その後の飲み会に集まるメンツの人数のほうが格段に多く、この飲み会がむしろメインの活動でした。このシリーズ読み続けていただいている賢明な読者様はお判りいただいていると思いますが、時はバブル真っ盛り。浮かれて調子こいた若者たちが、とんでもない飲み方をしていた時代です。お店側も心得たもので、直前の予約でも50人くらいの人数をカモが来たと平気で受け入れてくれるのもザラでした。そして、このサークル半端の無い飲み方で有名なサークルで、飲み方だけなら体育会系の部活とも張り合うようなアホなノリで、一部では武闘派サークルとも呼ばれていまして・・・。そんなわけで、見た目に反して全くの下戸の俺が良く続けていたなとも思いますわ。で、話のついでですが、学生服販売編の仕事場で仲良くなったK保木とは、そこで意気投合した後に、このサークルに誘ってさらによく遊ぶようになっていました。まあその辺は、またいつか別の話の機会にでも。
 と、話がだいぶ逸れまして・・・初顔合わせ時に、そのサークルの学年一個下のC野、もう一つ下のM子など。そのほかにも、川越オーククラブ時代には会員さんとしての利用者だったS賀やY田の顔もありました。オープニングスタッフという皆が同時スタートの中、直属のサークル後輩はやりずらかったかもしれませんね。そんな関係性から少し先輩扱いされながらの始まり。こっちの心境としてはバックレ出戻りなので、あまりデカい面下げて仕事できる立場じゃない微妙な負い目もあったので、それが逆に距離感を埋めたのか?スタッフ同士はかなり仲良くやっていたと記憶しています。サークル後輩にも、バイト内ではそこまでかしこまらないように含めてもおきましたし。
 仕事内容は川越時代と基本変わらず。
・ジム利用者さんへの施設利用説明
・器具取り扱いレクチャー
・ストレッチなどのサポート
・トレーニングメニューの相談対応
・プール監視
・ほか随時 各所整理整頓掃除など
時給は当時の平均的な700円前後だったかな。学生服販売で懐は暖かかったので、正直バイト代はあまり気にしていなかったですね。って、ほんと生意気。
 この頃は、学校には必要最低限しか行っていませんでした。行っても先のサークルか、体育会棟にあったもう一つの所属のスポ編の部室か、所属のゼミ室か。授業はホントに今日は来ないとヤバいぞって情報が回ってきた授業のみ。こういう情報って誰がつかんでくるかわからないけど、不思議なことに結構信頼できる内容だったりするわけで。その日に限って抜き打ちで出席カードが配られるとかね、情報通り。
 そんな風に学校には行かず、だいたいクラブのオープンの準備から早番で仕事に入り、夕方17時とか18時とかまで働いて、遅番、夜番に引き継ぐ感じ。シフトの穴が出たりするとそのままクローズまで入ることも。状況によっては社員さんよりも就業時間長かった日もあったりね。この辺の就業状況が担当当局からつつかれないのも、ある意味いい時代でした。
 なんでそんなに働いているの?そこそこ余裕はあったわけでしょ?との疑問もありますでしょうか。3年生という学年になると、サークルなどの飲み会では、下級生には財布を出させないという風潮があったりしてね、昭和の香りぷんぷん。1次会などは会費制だったりしても「金無いので行けない」って後輩がいたら「気にしないで来い」って予め会費分握らせておいたり、2次会以降はその日〝持っている人〟が出す。なんてね、で、それが先輩としてカッコイイなんて。カッコつけしいの俺としては、その辺譲れない訳で、収入あればあっただけよかったんです。まぁそんな具合な事もあったりもしましたし、実際、勉強自体そんなに好きじゃなかったので、働いていることのほうが楽しかったんですよね。どこかで書きましたが、学校は大卒の肩書が欲しかっただけ。
 そしてこのOAK2って職場は、ほんとに楽しかった。仕事はもちろんだったけど、スタッフが仲良くて、週1ペースかそれ以上で遊んでいたような。全体に声かけてのお疲れ様会的な公的な集まりの他、シフトの都合もあるので少人数のプチ飲み会、その日の仕事上がりからの流れでってこともありました。夕方上がったメンツで遊んでいて、遅番上がりのメンツが後から合流。さらにそのまま夜中までコースとか。だいたいが、さんざん呑んでからのカラオケが多かったかな。さらにそのまま誰かの家まで行って朝までコースなんてことも。もちろん俺はそこまで呑まずにウーロン茶ガブ飲み(笑)。
 そうなると、そこから俺なんかは早番出勤とかはざらにあったわけで。でもね、そこはスポーツクラブ。シャワーは浴びれるんですよ。ただ、社員さんの手前、いきなりシャワーってわけにもいかないので、率先してプールの準備とかに入ってプール内の清掃をしたりしてね。プールの中に入って水底を専用の掃除機を使って掃除するんですよ。当時としては、なかなか画期的なマシンでしたが、少し後には自動で水底を動き回る有線の水中型ルンバみたいなのも出てくるんですがね。とりあえず水に浸かって体をシャキッとさせて、その仕事をした流れでシャワー浴びさせていただいて、身だしなみ揃えて仕事に付くわけ。替えの下着やユニフォームの予備は、常にロッカーに入れてあって問題なしって具合でね。ちなみにタオルなどのリネン会社にクリーニング任せているもの以外で、自社的にも洗濯できるように裏のほう洗濯機があった。そんな日の朝まで着ていた服や下着や前日のユニフォームなんかを、そこ辺りを任されている掃除スタッフのおばちゃんと仲良くなっておいて、使わせてもらったりできるようにもしていました。あさイチで洗ってボイラー室に干しておけば、仕事上がりにはしっかり乾いているという算段。たまに、おばちゃんが取り込んで畳んでくれていたりすることもあって、感謝しかない。当時の俺、いろいろ上手くやっていたもんだよなと、これ書くのに思い出しながら関心しますわ。
 そんな行いを、社員のスタッフもなんとなく「朝までこいつら遊んでいたな」とか「上手く使ってやがるな」なんて気付いていたんでしょうが、仕事しっかりやってくれていればOKって感じだったんだと思います。
 ただ、このような貫徹明けの日のプール監視は大変でした。気温が常に30℃弱くらいの室温設定で湿度がそれなり。基本的には監視台の椅子に座って全体を観ていなければならないのだが、動かずにいるとうつらうつらとしてきて、気を抜くと瞼が下がってくる、そう、眠気との闘い。1時間交代で日に1-2回、監視番が回って来るシフト。昼休憩とかのタイミングで仮眠した後だと、まだよいが初っ端とかの午前などは、プール利用の会員さんも少なく、監視する仕事も余裕がありすぎて、座っている時間をなるべく少なくしようと、必要以上にプールサイドを歩いたり、なんか仕事している風に動いたり。うん、あれは辛かった。どう切り取っても自業自得なんだけどね。
 そんで、その日の夜はサークルの集まりがあって、そのまま、また朝までコースとかってこともありました。そんなこともあっからか、サークル後輩でバイトも被ったC野とは、卒業して社会人になっても相当の頻度で毎週末のように一緒に遊んでいた時代もありました。その他、この鶴ヶ島時代の仲間は今現在でも、連絡先繋がっている状況。川越在住が多いのもあり、その中でもS賀が仲間の面倒みよくて、彼の声掛けで年に1度くらいの川越あたりで忘年会や新年会って名目で集まったりしています。
 一緒に楽しい時間を過ごしたメンツ、正直バイト自体よりも遊んでいたことのほうの思い出が多いかな。会えば懐かしい話になったり、連絡取れていないメンツは何しているんだとか。
 みんないい歳になっているけど、いつまでもこの関係続くといいね。

では、スポーツクラブ編はこの辺で
次回
『スキーインストラクター(✕)でなくって 〝インチキ〟ラクター(〇)編』
お楽しみに~。
 


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