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道徳感情史論


まえがき:神学的な善悪の終焉と道徳の正体

 私たち人間は神の手によって創られた。それ故にわれわれ人間は神の教えに背くことは許されない。「人を殺す」ということは神の教えに背くことであり道徳に反する。かつて、人々はそのようにして「道徳」を捉えていました。神様が「○○すべきだ」「△△すべきでない」と教えを説いているのだからその教えには従うべきだ、と。その神の教え(正確には宗教上の掟)が善悪の基準を作っていたのです。思想家の内田樹は神の時代の道徳を次のように言い表しています。

 かつては「至高者」が君臨して、すべてを覆い尽くす「聖なる天蓋」を形成していた時代があった。行動の規範は「神」から私たちに絶対的命令すなわち「啓示」というかたちで与えられた。アブラハムはエホバの声を聞き、釈迦は菩提樹の下で成道を遂げ、マホメットはヒラー山の洞窟でアッラーの啓示を受けた。彼らが了解した「最初の言葉」は絶対的な真実であり、人知による懐疑の余地を残さない。この「啓示」という前提を受け入れるならば、人間の遭遇しうるすべてのケースを予測して、「なすべきこと」と「なしてはならないこと」の網羅的なカタログを作成することは論理的には可能である。
(内田樹 『前-哲学的』)

 しかし、科学の発展や宗教改革に伴い宗教の力は弱まり、神の権威も薄れたことにより近代は神が死んだ「人間の時代(人文主義の時代)」へと変わってゆきます。

 「神は死んだ」というのは、彼の有名な哲学者フリードリヒ・ニーチェの言葉です。ニーチェは『愉しい学問』の中で次のように述べています。

――近代最大の出来事――つまり「神は死んだ」ということ、キリスト教の神への信仰が信ずるに足らぬものになったこと――は、その最初の影をヨーロッパに早くも投げかけ始めている。
(フリードリヒ・ニーチェ 『愉しい学問』)

 「神は死んだ」は、神が勝手に死んだかのように誤解されがちですが、違います。神は勝手に死んだのではなく、人間(が生み出した科学や人間が行った宗教改革など)に殺されたんです。ニーチェは次のように述べています。

おれたちが神を殺したのだ――お前たちとおれがだ!おれたちはみな神の殺害者なのだ!
(フリードリヒ・ニーチェ 『悦ばしき知識』)

 今では、宗教や神を誰もが信じている訳ではないです。だから「神が人間に善悪の基準を与えている」と言ったとしても信じない人も多いでしょう(かく言う私も道徳が「神の教え」だなんて信じていないです)。

 もはや善悪の基準である「道徳」を神では説明できません。神は我々人間が殺したからです。神の啓示はもはや我々人間には通じません。ニーチェは次のように述べています。

世界がこれまでに所有していた最も神聖なもの最も強力なもの、それがおれたちの刃で血まみれになって死んだのだ
(フリードリヒ・ニーチェ 『悦ばしき知識』)

 もはや、神は我々に何をすべきで、何をすべきではないかを教えてはくれません。私たちに絶対的な(道徳の)価値を与えてくれる存在はいません。ニーチェはそれを「ニヒリズム」と呼んでいます。

ニヒリズムとは何を意味するのか?――至高の諸価値がその価値を剥奪されるということ。目標が欠けている。「何のために?」への答えが欠けている。
(フリードリヒ・ニーチェ 『権力への意志』)

 では、「道徳などないのか」というとそういう訳でもありません。何が善くて、何が悪いのかを私たちはなんとなくわかっています。「弱い者いじめをしてはいけない」が道徳的に正しいということを、おそらく読者の大半は理解できるでしょう。

 私たちは何を善い/悪いと考えるべきかはわかりませんが、何を善いと思い、何を悪いと思うかはある程度わかっています。つまり、道徳として人間が目指すべき善悪の基準はわからなくても、善悪の基準として私たちが何を道徳と見なすのかはある程度はわかっているということです。

 では、そろそろ本題に入りましょう。神では説明ができない「道徳」とは一体何なのでしょうか。神無き時代の「道徳」の正体について、私たちは何を「道徳」と見なすのか本稿では考えていこうと思います。そして、「道徳」と私たちの世界との関係についても考えていくことにしましょう。


第Ⅰ章:人間本性は道徳感情である

 なぜ、私たちは「わたし」だけでなく「われわれ」と他者をも気遣うのでしょうか。そう神から啓示を与えられたからでしょうか。いいえ、もう神はいません。神は人間が殺したのでいません。

 では、なぜ他者を気遣うのか。その理由を「感情」で説明をした哲学者がいます。デイヴィッド・ヒュームです。ヒュームは『人間本性論』という本の中で人間本性は「感情」であると述べています。

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