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逢坂志紀掌編集

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筆者、逢坂志紀の掌編、短編集。
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記事一覧

誘蛾灯

誘蛾灯

 季節が変わろうとしているのを感じる。

 私はナイロンコートを薄手のセーターの上に羽織って、自転車にまたがった。

 通り過ぎた厳めしい造りの家の塀から梅の木が見えた。小さな花を咲かせている。

 桜にはまだ早い。しかし、すでに新たな命の息吹を感じられる。

 工房に着くとコートを脱いで、作業用のエプロンを着けた。

 作業用のエプロンは知り合いの革小物屋で作ってもらった物だ。厚手のストライプの

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案因運縁恩

 私とムスヒはぶらりとその町を歩いていた。

「ここは? 隠れ家その何?」

「ここか? ここはその五だな」

「いくつめだっけ、私が連れてきてもらうの」

 私は首を横に振った。

「分からないな」

「じゃあ私にも分からないな」

 ムスヒが呆れたようにため息を吐いた。

 江戸時代から残る古い酒造りの建物を眺める。

「へぇ、素敵ね」

「ああ、そうだろう」

 ムスヒは黙ってもう茶色を通り

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驕れば折れる、謙れば垂れる、誇れば伸びる

驕れば折れる、謙れば垂れる、誇れば伸びる

 ムスヒと花屋に来ていた。まだ寒いが花屋に並ぶ花は春の物が多く、どれも発色がよくて目が喜ぶようだった。

「キレイね」

 ムスヒが隣で笑っている。

「ああ、キレイだな」

 私も同じように笑った。私たちの付き合いは穏やかなものだった。たいてい私の行きたい場所に勝手にムスヒがそこに着いてくる形が多かった。

 今まで女性と関係を持っても、自分のプライベートなスペースはあまり侵されないようにしてき

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忘れてなどいない、今も勇気を

忘れてなどいない、今も勇気を

「タツヒコ君、これは?」

「私の作った靴だ」

「ありがとう、嬉しい」

 目が覚めた。夢を見ていたようだ。懐かしい夢だった気がする。だが目を覚ましてすっかり内容を忘れてしまった。

 窓の外はもう明るく、私は洗面所に向かった。

 歯ブラシのブラシ部分を湿らせ、チューブから歯磨き粉を取って口へ運んだ。

 歯磨きを終えると、一度キッチンに行って水を一杯飲んでから再び洗面所に戻った。ヒゲを剃り、

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残りものに福があるというのなら私はとびきり幸せになれるだろう

残りものに福があるというのなら私はとびきり幸せになれるだろう

「酒を飲んでいる時、すべてを忘れられる。そんな時があった」

「ふうん」

 私の部屋のベッドで隣に寝転ぶムスヒは気のない返事をする。私は気にしないで話を続けた。

「今では酔っていることがもったいないと感じる時さえある。自らの感覚というのを信じるようになったからかも知れない」

「ふうん」

 ムスヒは平らな胸を私の背中に押し付ける。

「そんなこといいからさ、致そうぞ」

 そう言ったムスヒは

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手招きに合わせてステップを踏む、そこに自分らしさは

手招きに合わせてステップを踏む、そこに自分らしさは

 ムスヒと街の山側へと出かけた。

 私の用事に付き合ってもらう約束だった。

 二人で手を繋いで真冬の街を歩く。街を行く人はみんながみんな暗い色の洋服に身を包んでうつむいている。

 しかしムスヒは今日はマフラーに黄色を使い、柔らかな白のムートンコートを着ていた。一人、とても目立っていた。

「ねえ、タツヒコ。まだ着かないの?」

「もう少しだ」

 私が答えると、ムスヒはふうんと言って山の峰に

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ただ日々を淡々と生きること、それだけが今できること

ただ日々を淡々と生きること、それだけが今できること

 私が工房で作業していると思いもよらぬ客がやってきた。その人は最後に見た時と同じ出で立ちだった。

「タツヒコ」

「……モリノ」

 今日は師匠もいる。師匠がまた女かと言いたげな目をこちらに向ける。

「タツ、早く済ませろ」

 作業の手を止めて話を済ませて来いという意味だ。私は作業用のエプロンを外してジャケットを羽織った。寒さが増したので、今日はライラックのクルーネックのセーターだ。

 応接

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あなたに読んでもらえないのなら本当は書きたくなんてないけれども

あなたに読んでもらえないのなら本当は書きたくなんてないけれども

「タツヒコ、それは何をしているの?」

 私が工房で作業しているとムスヒが尋ねてきた。

「これか?」

 私が左手で持っている木型を顔の高さまで持ち上げるとムスヒは頷いた。

「これは吊り込みという作業だ」

「吊り込み?」

「革を木型に合わせて釘を打っている。アッパーを作る作業だ」

「アッパーってこれ?」

 なぜかムスヒはシャドーボクシングをしている。

「そのアッパーではない」

 ひ

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逃れられない苦しみにはぶち当たっていけばいい

逃れられない苦しみにはぶち当たっていけばいい

 ムスヒが仕事中の私を訪ねてきた。

「ね、タツヒコ。お弁当」

「ああ、すまない」

 私は仕事用のシャツにネクタイにベストの出で立ちのままでは失礼だろうと思い、ベストと揃いのツイード生地のジャケットを羽織った。

「わお、スーツマジック」

 ムスヒが冗談ぽく私の肩を叩く。

「私はいつでも魔法使いだ」

「へぇ~、言うじゃない」

 ムスヒが目を細め、肘で私の肩の辺りを突く。

「言葉は魔法

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一億総発信時代だからこそ

一億総発信時代だからこそ

 ムスヒは公園のブランコを漕いでいる。

 この街にある唯一の公園だ。私はブランコの囲いをへだてた場所にある滑り台の一番下で座っている。

「なんで体操座り?」

「いや、これは三角座りではなかったか?」

 膝を曲げ、両腕で膝を抱えている状態をなんと呼ぶのか議論している。

「体操座りだね、絶対」

 ムスヒは得意げに端末を取り出して検索を始めた。私はボーっと空を見上げる。今日は雲が多い。薄い灰

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願いを叶えてくれる龍がいたとしても

願いを叶えてくれる龍がいたとしても

 私は街を歩いていた。澄みきった空気は今日も変わらない。

 ロングコートの前をきつく締めて、モリノの働く喫茶店に向かった。

 カランとドアベルが鳴るとカウンターの奥からモリノが現れた。

「あ、タツヒコ! 早かったね」

 なぜかモリノとは一度きりの関係にならなかった。あの日話したことが面白かったからかも知れないし、そうでないかも知れない。私にはよく分からない。

 モリノは私を席に通すと、こ

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花はそこにあるだけで

「花はそこにあるだけで花だ」

 私は言った。

「言っている意味が分からない」

 ムスヒが言った。

 ムスヒは怒ったように頬を膨らませて、私に抗議する。その顔はわりとかわいい。それでも抱きたいとは思わないが。心の中でつぶやくに留める。

「全部言わないと分からないか?」

 私が問うとムスヒはコクコクと何度も首を縦に振った。

「花はそこにあるだけで花だ。人はそこにいるだけで人だ。終わり」

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靴磨きのアテン Ⅱ

靴磨きのアテン Ⅱ

「それで、今日はどんな話ですか?」

 だいたい尾形さんがオレのところへ来る時は厄介ごとを抱えている。十中八九そうだ。

 尾形さんのローファーを馬毛のブラシでブラッシングしていく。強く、柔らかく。ブラシの先をしならせるように。

「んっとね。ウチによく来る女性のお客さんなんだけど」

「へえ、女性の方ですか。珍しい」

「うん、そうなの。パテントの赤のパンプスを持ってくるのね。エナメルは磨き方が

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靴磨きのアテン Ⅰ

靴磨きのアテン Ⅰ

 馬毛のブラシを水で湿らせる。

 かかととつま先、黒の乳化クリームを入れた部位から全体になじませるようにブラシをかける。一通り乳化クリームを全体に行き渡らせると、最後は乾いた馬毛のブラシでブラッシング。これで、完成だ。

「大変お待たせ致しました」

 作業カウンターの向こうで談笑していたコカドという初老の紳士に笑顔を向ける。

「ああ、ありがとう。いつも通り素晴らしい仕事だね」

 コカドは嬉

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