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「生きていてほしい」の天秤

ぼくは自分が出会った人たちには、幸せに生きていてほしい。
それはいま繋がりを持っている人だけじゃなく、別れてしまった人たちも含めて。それぞれの道で幸せに暮らしてくれたらいいなあと思っている。
気にかけてくれる人には恩返ししたいし、ぼくも困っている誰かを見逃したくない。

そんなぼくにも「生きていてほしい」と言ってくれる人たちがいる。それは友人だったり、訪問してくれる看護師さんだったりする。
その人たちの「生きていてほしい」という言葉に嘘はないとわかっている。それなのに、ぼくに向けられる言葉を軽く受け取ってしまう。
ぼくが逆の立場だったら、自分に「生きていてほしい」と言うだろう。それがわかっていても、ぼく自身の命は軽くて、天秤は傾いてしまう。

大切な人たちの願いを、どうしてぼくはその重さ通りに受け取れないのだろう。
ぼくにでも、そう思ってくれる人がいるんだと、ただただ純粋にうれしく思えないのだろう。

ぼくは自分が死ぬ時は、お世話になった人たちに何かしら遺しておきたいなと思っている。財産はないけれど、心ばかりの何かを。
でも、その人たちはぼくに「生きていてほしい」と思っているはずなのだ。
遺すんじゃなく、生きて幸せになってくれと。
これはおそらく、ぼくの自己肯定感が低く、誰かを幸せにするやり方が自己犠牲的すぎるのだ。

綿矢りさ先生の『インストール』のこの部分を思い出す。

p.43,44
青木さんほどではないにしても、かなりの不器用である私は後ろ暗い気分で母のその言葉を聞いていた。高倉健のようなプラスの不器用さではなく、この青木さんのような、相手の人間を思わずのけぞらせてしまう程の異様な一途さをぶっつけてくるマイナスの不器用さを持った人は、実際迷惑だ。怖い。(中略)本当の不器用は、愛嬌がなく、みじめに泥臭く、見ている方の人間をぎゅっと真面目にさせるから。

ぼくの生き方はこうなんだろうなと感じることがある。真面目にしているつもりが、いつの間にか浮いてしまっていた自分。それをなんとか取り戻そうとするほど、泥沼にハマっていく。人間関係ってどうやって作るんだっけ?大人になってからわからなくなる。

この天秤を釣り合うように、自分と相手を対等に扱う。
みんな、どうやっているんだろう?
これがわからなければ、大切な人の言葉をこぼしてしまう。

砕けた心のかけらを四年前から拾い続けている。
それでもまだ、欠片はそろわない。
ぼくの心は最初から穴が開いていたのではないか?
底が抜けた心から、暗闇をのぞき込む。

「開けっぱなしになっている口からよだれが垂れて、それが糸を引きながら果てしなく下へ落ちていく。」(『インストール』 p.35,36)

「そこに誰かいませんか?」

答えはない。

開いた口と心の穴は、自分の尾を噛んだ蛇のように空虚を飲み込んでいた。

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