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人生の転機に東京から名古屋までの380㎞を8日間かけて走り切った話-第2話「やっぱり甘くなかったよ編」

この記事は、海外駐在から帰国したのち会社を退職した私が、新しい人生のスタートの門出を祝して、東京・名古屋間をランニングで走り切った記録です。

前回(第1話)では、「誰もやったことがないバカバカしいことをやりたい」と走り旅を思いついた経緯や、初めの2日間(東京駅~箱根湯本駅の96.9㎞)を走った時の様子を綴ってあります。

今回(第2話)では、この旅初めての危機(しかも2本立て!!)に直面した3日目と4日目(神奈川県箱根湯本~静岡県藤枝の114.3㎞)の模様をお伝えします。

(※以下が第1話です。)


本当の旅の始まり(3日目:箱根湯本~富士駅/ 51.2km)

3日目の朝、宿からバスで昨日のゴール地点・箱根湯本にある旧街道の坂道の中腹に戻ってからのスタート。ここ2日間ザックを背負って走ったからか、首周りが重い。

旧街道は、箱根駅伝のコースになっている新道よりも上りの標高が低く、距離も短い。とはいえ、芦ノ湖がある元箱根まで長さ9km・標高差700mの坂道を進まなければならない。

この日は朝から日差しが強かった。しかも、ヘアピンカーブが重なるつづら折りにスタート早々に息が上がってしまう。

(旧街道は新道に比べて距離が短いがタフ)

この日も45㎞以上走らなければならないことを考えると、ここで体力を使い果たすわけにはいかない。私は思わず道路を逸れ、日陰を求めて脇道の旧街道石畳に吸い込まれた。

地面を覆う木々から漏れ届く光が、ぎっしりと敷きつめられた石畳の数々を照らしている。車のけたたましい走行音から遮断され、鳥のさえずりと自らの息遣いが重なり合う。

所々設置されている案内板に目をやる。この街道は、雨の日は足のすねまで泥がつかってしまうほどの悪路だったところを、延宝8年(1680年)に江戸幕府が整備したのだそうだ。当時の旅人たちに思いを寄せつつ、苔に覆われた石畳に足を滑らせないよう、一つ一つ注意して進んだ。

(旧街道石畳)

スタートから1時間を過ぎたころで、峠を超えて芦ノ湖に着いた。前半の難所を越え、これで一安心。湖岸で一つ大きく息をついて前を見直すと、芦ノ湖を囲む外輪山の合間から、この旅で初めて富士山が現れた。

(箱根駅伝のオープニングを思わせる風景)

そこからまた100mほど山道を上り、標高846mの箱根峠へ到達。ちょうどここから静岡県函南町に入った。

(静岡県函南町に入った)

ここから、三島の市街地に向けて15㎞ほど坂を下っていた。側道に植えられた木々の間から三島の街を見下ろすことができた。足が軽くなり、意図せずピッチが上がっていく。頭の中で、初代ポケモンのゲームで自転車に乗ったとき時の、軽やかなBGMが流れた。

(三島の坂を颯爽と!?下っていく)

ところが、そんな甘い時間はすぐに消え去った。

坂を下り初めて数キロ、身体に異常が起きてしまった。左の足首にビビッと電流のような衝撃が流れる感じがしたのだ。

初めは気のせいかと思ったが、三島の市街地に降り立ったころには鋭い痛みに変わっていた。よく見ると、足首の前側が少し腫れていた。

平地になってしばらくすると、少しは痛みが引いた気がしたものの、それでも数百メートルおきに患部がジンジンと疼く。足の着き方を変えてみたり、歩きを交えてみたりする。どうやら足首の角度が変わると痛みがでるようだ。

連日長時間走り続けるという今までにない負荷がかかる中、下り坂で足首が悲鳴を上げてしまったのだろう。いや、上りの石畳で、気づかぬ間に足があらぬ方向に曲がってしまったのかもしれない。

どこでどう走り方を間違えたのか。あれこれ考えても「正解」が出てこない。

今日のゴールである富士駅まではあと半分以上距離がある。もしなんとか今日の目標をクリアできたとしても、明日痛みがどう出てくるか分からない。これでは、名古屋まで半分もしないうちにリタイアしてしまうかもしれない。

一度不安や迷いが生まれてしまうと、かき消すことができない。そして、「そもそもなぜこんな無謀な挑戦をやろうと思ったのか」と、次第には自分を責め始めてしまった。

ここは、ネガティブな自分を受け入れながらも、なるべく先のことは考えないようにし、目の前の1㎞(いや、数百m)を積み重ねていこうと考えた。沼津駅から富士駅までの20km、ただ無心でひたすら走った。

16時半、日が出ているうちにJR富士駅に到着。

(※3日目の走行データです。)

中間地点到着も訪れた”この旅最大の試練”(4日目:富士駅~藤枝/ 63.1km)

4日目、まずは静岡駅を目指す。

昨夜コンビニのロック用氷で患部を冷やしたのもむなしく、相変わらず足が疼く。ただし、走れないほどの痛みではないので、心を無にして宿を出る。

三島に入った時は横から見ていた富士山を、今は背にして走っている。よくもここまで来たものだと思うと、感慨深い気持ちになった。

この日前半の難所は東海道一の絶景と呼ばれる薩田峠(さったとうげ)。富士山のみならず、伊豆半島や日本一深い湾を持つ駿河湾を一望できる景勝地で、歌川広重の「東海道五十三次」にも描かれている。

(左方面の富士山と駿河湾を臨む)

4日目にもなるとさすがに脚が上がらない。たかが標高90mのはずが、何倍も高い山に登っているように感じられた。

フラフラしながら坂を上る私を、原付が追い抜いていく。唸り声のようにエンジン音をとどろかせるスーパーカブに、私は心の中で叫びを上げる自分の姿を重ねた。

早くも峠で力を使い果たし、泥にはまったように重い両脚をひたすら動かし続けた。

(静岡市に入り案内標識に「名古屋」の文字が出てきた)

12時過ぎ、スタートから30㎞地点の静岡駅に到着。やっと東京・名古屋間の半分に行きついた。

足首の不安があるとはいえ、半分も走らずに東京に帰れば、周囲に「アイツはただ大口を叩いただけだった」と思われかねない。静岡駅という最低限のノルマをクリアしたことで、「どこでリタイアしても、誰からも文句は言われないだろう」という精神的な余裕が生まれた。

(4日目にしてやっと中間地点に到着)

今日のゴールである藤枝駅まで残り20キロ。この勢いで走り抜きたいところだったが、思わぬ試練が待ち受けていた。

なんと、googleマップの案内通りに進めない道が出てきたのだった!!

googleマップが示したルートは2つ。1つ目は、今いる国道1号をそのまま進んで山側を行くルート。もう一つは、JR線に沿って海側の県道416号経由を行く道。どちらも距離は同じだが、山側を行くルートは坂が多いことから、海側のルートを行くことにした。

しかし、2つのルートの分岐から海側へしばらく進み、海岸線に出ると、右手側に切り立った崖が現れた。そのまま県道416号を進んでいくと、道路が海の上に出ていく区間に入った。この時点ですでに歩道はなく、路側帯も数十センチほどとかなり狭い。

不安げに歩みを進めていくと、とうとう「転落の危険あり 立入禁止」の看板が見えてしまった。これでは前に進めない。

(※立ち入り禁止になっていた区域は下記地図の通りです。)

Wikipediaによると、この道路がある大崩海岸の名前は崩落が多いことに由来し、この海上道路も土砂崩壊を契機に作られたとのことだった。この時、午後2時半。

この日は午後6時から雨の予報。あと3時間半で、来た道を引き返し25km進まなければならない。本来身体が元気であれば、この距離はクリアできる。しかし、この時の私は漬物石を背負ったかのように全身が重く、精神的にも体力的にも、道に迷った分の5㎞を受け入れる余裕がなかった。

「詰んだ……」

やり場のないもどかしさを抱えた私は、その場にしばらく立ちすくんでしまった。私の横を何台もの大型車が音を立てて通り過ぎていく。

この時の私は、「世界ガックシ選手権」という大会があれば、文句なしで日本代表になれただろう。パンクしたタイヤから空気が逃げていくように、身体中のあらゆるエネルギーがシューっと音を立てて抜けていくのが聞こえた気がした。

後で振り返っても、この時が一番リタイアに近い瞬間だった。

しかし、ここである思いが頭をよぎった。それは、「今回自分がやりたくて走っているのだ」といことだった。

当たり前のことだが、嫌なら辞めて東京に戻ってしまえばいい。この予期せぬ事態を受け入れるか否かは自分次第だということ。

こうしている間にも、雲が徐々に厚みを増している。その間にも、少しでも前に進まなければならない。私は、脚を引きずるようにして再び一歩を踏み出した。

結句、日没後の17時半、雨が本降りになる前になんとか藤枝駅に辿りついた。

(藤枝駅に到着したころにはポツポツと雨が降っていた)

「はあああああぁぁぁぁぁ。」

宿のチェックインを終え、部屋に入ると思わず、隣の部屋に聞こえそうなほどの大きなため息をついてしまった。なんとか今日も一日乗り切った。

名古屋まであと168km。2度の試練を乗り越え、身体に不安を抱えながらも着実にゴールに近づいていく。
(最終話へ続く)

(※4日目の走行データです。)

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