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モリソンの悲劇  第554話・7.30

「間もなく鹿児島だ」英語でそれを聞いた音吉は、顔は笑顔になりつつ内心不安でいっぱいであった。
 ときは江戸後期1837年の夏。アメリカの商船モリソン号に乗っていた音吉は、5年ぶりにうっすらと見える祖国の陸を間近に見た。
 音吉は、愛知の知多出身の船乗り。1832年に江戸から鳥羽まで物資を運ぶ船にいたが、遠州灘で遭難。太平洋をさまよってアメリカ大陸の北部、現在のワシントン州に当たるオリンピック半島に漂流した。
 現地民に助けられたものの、奴隷として売られ、その後イギリスに渡る。

「早く日本に戻って、梅干し食いたいよ!」と大声を出したのは横にいた庄蔵という男。この船には音吉、庄蔵の他にも寿三郎、力松といった日本人が同乗している。彼らも船が漂流して外国で助けられたメンバー。
「梅干しか、それはマカオにも、話梅という似たものがある」
「あれじゃない、あんな干からびて甘味のあるのは梅干しとは言わん」
 音吉に反論する庄蔵は、この日が来るのを本当に待ちわびていたようで、体中から喜びがにじみ出ていた。

 音吉はこの日までの記憶を走馬灯のように頭の中を駆け抜ける。イギリスのロンドンに届けられたのち、日本帰国のチャンスが訪れたのは2年前のこと。1835年にマカオに到着した。その時に庄蔵や寿三郎たちと合流。ちなみに彼らは1834年に天草から長崎に向かう船で遭難、フィリピンのルソン島に漂流した後マカオに来た。
「江戸に向かったときのようにならなければ」音吉はそう言って目をつぶり腕を組む。マカオを出発したモリソン号は琉球を経由し、最初に江戸に向かった。モリソン号としては日本人を無事に祖国に送り届け、それをきっかけに通商を試みようとしたのだ。

 ところが7月30日(天保8年6月28日)に、江戸に近づこうと三浦半島の城ケ島南方まで来ると、突然日本側から攻撃を受けてしまう。
「なんと敵対的なんだ。こちらは民間の船だというのに」モリソン号の船長は予期せぬ攻撃に戸惑った。ここで寿三郎が「薩摩・鹿児島に行きましょう」と提案。やむなく船は鹿児島に向けて進路を反転した。

「薩摩が実効支配している琉球には普通に立ち寄れたんだ。だから薩摩の鹿児島なら受け入れてくれるよ」寿三郎は江戸と鹿児島では対応が違うのではと期待した。知多出身で江戸との往来をしていた音吉と、九州の船乗りである寿三郎たちとはそういった面での距離感が違うのかもしれない。
「だといいんだが......」音吉は自信に満ちた彼らを見ながら、わずかばかりの可能性に期待した。

「では交渉してきます」モリソン号がいよいよ薩摩山川港の近くまでくると、庄蔵と寿三郎は通訳として、モリソン号の思いを伝えるべく、小舟で上陸を試みる。
 船に残った音吉は、ふたりを見送ると、手元にあった一冊の本を手にした。「これが災いになならなければ」手に持っていたのは聖書である。


「帰国後どんなお咎めがあるか分かりません。お許しください」音吉たち日本人はマカオで預けられていた、イギリス貿易監督庁通訳官のチャールズ・ギュツラフの申し出を断った。
 ギュツラフはドイツ人でキリスト教の宣教師という顔を持っている。すでに、中国大陸の沿岸部に拠点を手に入れつつあった欧米の諸外国は、中国の東にある島国日本に大変関心を持っていた。鎖国体制を打破して通商できないか策を練っている。音吉たちを無事に日本に届けるのもその一環であった。
 そしてギュツラフらキリスト教関係者はもうひとつ、キリスト教の布教を日本で行うことをたくらんでいたのだ。
「神の教えを広めるまたとないチャンス。君たち一緒に翻訳しよう。そうすれば、ここに書かれている神の教えが、いかに良い知らせなのかわかる」

 ギュツラフは聖書を片手に3人に強く訴える。音吉たちもかれらの手がないと日本に戻れないことを知っていた。だから渋々手伝うしかない。
「この教えを翻訳したことは日本では内緒だぞ」「でも、できるかなあ」
「無理やりやらされたと言おう。そして俺たちはこの教えはよくわからんと」
 こうして3人はギュツラフと共に聖書を日本語に翻訳した。これが初の日本語訳聖書『ギュツラフ訳聖書』である。

「確かに良いことを書いているが......」自らの手で翻訳した聖書のページをめくる音吉。やがて小舟が帰ってきた。そして寿三郎と庄蔵が戻ってくる。「あ、やっぱり!」ふたりの表情を見て音吉は悟った。
 行きの自信に満ちた表情とは正反対。顔色が変わり恐怖の絶望の表情をしている。

「どうだった」モリソン号の船長が確認した。「ダメでした。全く聞く耳を持ちません」「それどころか、すぐに出て行かねばこの船を砲撃するとまで」寿三郎に続き庄蔵が説明すると、遠くから音がする。
「攻撃です、またしても日本側からの砲撃をしてきます」「やむを得ぬ、マカオに撤退する!」

 こうして祖国の陸を目の前に、その上、庄蔵と寿三郎は上陸したのにもかかわらず、音吉たち日本人漂流民は日本への帰国が果たせなかった。落ち込む日本人たちを乗せたモリソン号は、沖合に向けて出発。鹿児島側からの攻撃を避けながら進んでいき、8月19日にマカオに戻った。

 この事件はモリソン号事件と呼ばれる。当時の幕府は、異国船打払令を出していた。モリソン号は商船であったが軍艦との区別がつかず攻撃されたという。結局三人は帰国せず、庄蔵と寿三郎はマカオで亡くなる。
 音吉はその後上海に渡り、上海のデント商会で働き、成功を収めた。1849年にはイギリス東インド会社艦隊の帆船マリナー号で再度浦賀に向かう。これを含め通訳として活躍。そのときは上海での地盤があるために、帰国の要請があるのにもかかわらず断った。
 そして明治維新の前年にシンガポールで病死したという。






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シリーズ 日々掌編短編小説 554/1000

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