学校で飼っていた蚕を殺した
タイトルの通り、生き物(昆虫、動物などさまざま)の生き死にに関する話です。
HSP(HSC)傾向の人間が体験、感じたことをもとにした文章です。
読んでいて悲しくなる人、傷つく人、苦しくなる人、きっといると思います。
私を責めたくなる人も、許せないと思う人も、きっといると思います。
少しでも辛いと思ったら、無理に読まずに、自分が安心できることをしてください。
◆◆◆
ある朝。
学校へ行くと、飼育していた蚕の一匹が死んでいた。
私の通っていた小学校では、四年生になると、自分で蚕を幼虫から育てるという長期の体験学習をする。
幼虫の類が苦手な人も多いと思うけれど、当時の私の目に、蚕の子供たちはとても可愛らしく映った。二年生の時に飼育していたカブトムシの幼虫も可愛がっていたから、根本的に虫の幼虫が嫌いじゃなかったんだと思う。
目のところが黒くて、なんだか愛嬌のある顔。
葉っぱを食べる時は頭がもそもそ動き、短い手足でよいしょよいしょと一生懸命に移動する。
これからこの子達にご飯をあげたりできるのかと思うと、楽しみでたまらなかった。
でも、その幼虫の一匹が死んでしまった。
その日は朝礼がある日で、でも、朝起きるのが苦手な私は寝坊をして、ギリギリの時間に登校したせいで、教室には他の子どもたちも先生も、誰もいなかった。もうみんな校庭に集まってしまっていて、電気が消えた校舎の中は朝だと言うのに仄暗く、しんと静まり返っていた。
蚕を飼っていた飼育箱は、教室の一番後ろの棚に置いてあった。子供一人に一つ、それぞれの名前が貼られた飼育箱の中で、あてがわれた幼虫たちが桑を食んでいる。
私が飼育していた蚕は三匹。
他の二匹は熱心に桑の葉を齧っているのに、その一匹だけが、飼育箱の隅でぐったりと体を伸ばしたまま、ぴくりとも動いていなかった。
恐る恐る触ってみても、身じろぎひとつしない。
途端、心臓が爆発するみたいに、体の底から恐怖が溢れ出した。
どうしよう。具合が悪いのかな。病気になっちゃったのかな。先生を呼んできたほうがいいかな。だって、病気なら治してあげないと。そうじゃないと死んでしまうかもしれない、
それとも、もう死んでる?
一人っきりの教室で、私は動けなくなった。校庭のほうから、みんなが校歌を歌っているのが聞こえる。
もう一度、震える指を飼育箱に差し入れる。何度触れてみても、幼虫は動かない。今までだったら、こうして指先で触れると体をくねらせて反応していたのに、動かない。
死んでる、と思った。
本当いうと、昨日帰る時から、なんだかおかしいなと思っていた。
他の子達は元気なのに、この子だけ、なんだか大人しいな。
寝ているのかな、って。
あの時、先生に相談していれば、こんなことにはならなかったかもしれない。
そう思ったら、取り返しがつかないことをしたという恐怖感で、その場にへたり込みそうだった。
"なんとかしなくちゃいけない”
"ちゃんとしなくちゃ”
幼虫が死んでいるという事実を理解した時、私は反射的にそう考えた…の、だと思う。
曖昧な表現になるのは、あの時の自分が具体的にどんな感情を抱いて、どんなことを考えていたのか、こうして振り返ってみても、はっきり思い出せないからだ。
ただ、覚えているのは、『このまま何食わぬ顔で校庭に向かって、みんなと一緒に朝礼に参加することはできない』と思ったこと。
朝礼には行けない。先生を呼ぶことはできない。みんなが帰ってくるまで、このままにもしておけない。
私はこの事態を、自分一人で、私だけの責任で、他の誰かに知られる前に、"なんとかしなくちゃいけない”。
そう思った。
私は、死んだ幼虫を何か(ティッシュ? ハンカチ? 思い出せない)に包んで、校庭の隅の木立に向かった。
私の通っていた小学校は校庭が広く、グラウンドの隅に、木々に囲まれた小さな池があったのだ。
その木立の入り口の、すぐそば。
花はとうに散ってしまった桜の木の根元に、私は、死んだ幼虫を"捨てた”。
きちんと埋めるべきだ、と思ったけれど、そんな時間はなかったし、土は踏みしめられて硬く、道具も無しではとても掘ることなんてできなかった。
何より、死んでしまった幼虫は、見た目は何も変わらないのに、生きていた頃とは全く別の"何か”になったように思えて、触ることもできないほど怖かった。
手のひらに載せていることさえ恐ろしくて、耐えがたくて。
私は立ったまま、かがみ込むこともせずに、手のひらをひっくり返して、動かなくなった幼虫を、足元に捨てた。
地面には、無数の蟻がいた。蟻たちはじきに捨てられた幼虫に気付いて、その体に群がるだろう。
そう思ったら、不意に恐ろしくなって、私は、その場を逃げ出した。
◆◆◆
幼虫が死んだことは、誰にも言わなかった。"死体”をどうしたのかも。
でも、考えてみれば、先生たちは蚕の数を把握していたはずだし、もしそうなら、私の飼っていた幼虫が一匹いなくなったことに気付いても良さそうなものだ。
けれどやっぱり、思い出そうとしてみても、他の誰かから幼虫が減っていることを指摘された記憶はない。
そんなことよりも、私を苦しめたのは、『あの子は本当はまだ生きていたんじゃないか?』、という疑念だった。
"死んでいると思ったけれど、でも、動かなかっただけで、あの子はまだ生きていたかもしれない”
"もしそうなら、あの子を殺したのは私だ”
あの時、地面にいる蟻を見て怖くなったのは、幼虫がまだ生きている可能性に思い至ったからだ。
まだ生きていたかもしれないのに、あの子は捨てられてしまった。自分では少しも動けないのに、助けもなく。生きたまま蟻に群がられて。
まだ生きているのに、それを誰にも気付いてもらえないまま、じわじわと死んでいったのかもしれない――。
後悔した。自分を責めた。あの時、どうして逃げたりしたんだろうと思った。一人でなんとかしようとせず、先生に相談すればよかった。すぐに拾ってあげればまだ助けてあげられたかもしれない。まだ生きていたかもしれない。なのに。
でも、怖かった。
"死んだ生き物”が怖くてたまらなかった。
どうしても触れられなかった。手を伸ばせなかった。遠ざけたかった。
目を背けて、”なかったこと”にしたかった。
それに。
仮に、あの時点で本当に死んでいたのだとしても。あの子が死んでしまったのは、私の飼い方が悪かったせいなのだ。
ちゃんとお世話しなかったから。
フンの掃除が大変で、ついサボってしまったことが何度かあった。
可愛いからって、触りすぎたのもいけなかったのかもしれない。
私のせいだ。
私が死なせた。
私が殺した。
◆◆◆
それからしばらくして、残った二匹の蚕は、無事に繭を作った。
この繭から自分たちで糸を作るのが、蚕学習の最終目的だ。
けれど、いざ繭から糸を作りますという段になって、
『これから繭を大きい鍋で煮てもらうから、みんな、このザルの中に自分の繭を入れてね』
担任の先生がそう言って、
『繭から糸を作ること』が、『蚕を殺すこと』とイコールだと、その時になって初めて知った。
経過は覚えていないけれど、結果として、私は二匹分あった繭のうち、ひとつを手元に残し、一つで糸取りの体験をした。
『繭を持って帰ってもいいけれど、羽化させてはいけないよ』
残った一匹の繭を持って帰ると言う私に、担任の先生は困った様子でそう言った。
直接的な表現はさすがにされなかったと思うけど、蛹のうちにどうするか決めなきゃいけない、と暗い気持ちになったのは覚えているから、家で飼ってはいけないと説明されたのだと思う。
私が小学生だったその当時、日本には蚕糸業法という法律があって、個人が勝手に蚕を飼育することは許されていなかった。
……でも、その蚕糸業法は、実際には平成9年5月に廃止されていたらしい。
学校側がそのことを知っていたら、私はあの子を殺さなくてもよかったのかなと、今は思う。
あの子は、殺されなくてもよかったのにな、と。
◆◆◆
結局、私は先生の言い付けを守れずに、繭を羽化させてしまった。
今でも覚えている。飼育箱は持って帰れないから、担任の先生が急遽用意してくれたプチトマトの空容器。
窓辺に置かれた透明の容器の中で、羽化した蚕はじっと繭にひっついたまま、何日も何時間も動かなかった。
羽ばたいて外に出たがる様子もないし、食事を探し回ろうともしない。
もしかして、この子はもう死んでしまっているんじゃないかって怖くなるのと同時に、心のどこかで、そうだったらいいと思っている自分もいた。
もう死んでいるなら、私が殺したことにはならない。
――でも、蚕という生き物は元々、成虫になったらほとんど動きはしないそうだ。
だからあの子も、動かないだけで、きっとまだ生きていた。
やがて、どうすることもできずにいる私を見かねてか、それまで見守るだけだった母が「もうお別れしなさい」と言ってきた。
母はスーパーの袋を持ってきて、蚕の入った容器を手に取ると、私のほうを見て、一言、「いいね?」と聞いた。
よくはなかった。
でも、何も言えなかった。
そうして、私が学校で飼っていた蚕は、プチトマトの容器ごとスーパーの袋に入れられて、燃えるゴミの日に捨てられた。
あれから20年以上が経つけれど、この話は誰にもしたことがない。
あの時、幼虫が生きていたのか死んでいたのかは、今もわからない。
この先もわからない。
◆◆◆
私は、命を大事にできない人間だ。
大事にできないから、命が怖いと思っている。
命を大事にできないと、人から責められるから。
自分の命も、他人の命も、動物も植物も昆虫も、ぬいぐるみや人形だって、命があるもの、命が宿っているように思えるものは、みんな怖い。
だって、命は私を責めるから。
子供の頃にハムスターを買っていたけど、結局ちゃんとお世話できなくて、可愛がってあげられなかった。
ある日、ケージを覗いたら死んでいた。
捕まえたトンボに指を噛まれて、びっくりして指を引っ込めたら、トンボの首がもげてしまった。
見ていた親戚の大人が、「可哀想なことして」と、ぼそりと言った。
蝶の羽は濡れたらどうなるんだろう、と気になって、試してみたら、「なんてひどいことをするんだ!」と、ひどく怒られた。
実家で飼っていた犬は、私の目の前で死んだ。
病気で苦しんでいたけれど、家には誰もいなくて、かかりつけの獣医さんは休診日で、私は、何もしてあげられなかった。
私は命を大事にできない。
そんな人間は、この世の中では『最低だ』と言われる。
私の中にわだかまる漠然とした生きづらさ。居心地の悪さ、肩身の狭さ。いつも悪いことをしているような心地。『人から責められるんじゃないか』、と常に怯えずにはいられない性質。
そして、『自分が"自分”であることを知られたら、あらゆる人から嫌われてしまう』という恐怖心。自己否定。
どれも、私の中の、"命”というものに対する罪の意識に端を発しているように思う。
私はずっと、こんなことをしてきた自分は、許されないと思ってきた。
”許してはいけないんだ”と思ってきた。
『自分を許す』とか『自分を愛する』には勇気や覚悟がいるって、その手の発信をしている人たちはみんな言うけど、私は今まで、それをわかったような顔で聞いていたけど、ようやく、本当の意味で理解できたように思う。
自分を許すって、一人ぼっちになるってことだ。
『誰に責められても私だけは私の味方をする』って、世界に背を向けて、背を向けられて、"罪人”になる自分を受け入れるってことなのだ。
自分の”全て”を”本当の意味で”許すには、どうしたって、自分が『こんなことをする人間は許せない』、『こんなことは許してはいけない』と思っていたことに向き合う必要がある。
許せることだけ許していたのでは、"自分の全て”を受け入れたことにはならないから。
そのままでは、結局ずっと、人生が苦しいままだから。
自己受容とか、自分を許すとか、できなくて悩んでいる人が今の時代はとても多いけど、
でも、自分が今まで罪だと思っていたこと、許してはいけないと思っていたことを『許す』んだから、そんなことはできなくて当たり前だよな。
"こんなことをする人間はこの世界にいてはいけない”って、今までずっとそう思っていたことを許すなんて、そんなことをしてもいいとは、普通はとても思えないよな。
世界で初めて『自分を許そう』って思えた人はとてもすごいよ。
許しちゃいけないことを許すなんて、そんなことをしていいのかわからないよな。
私が楽になるために、苦しまないでこれからも生きていくため"だけ”に、そんなことをしていいのかな、って思うよな。
私が苦しまないことに、私が生きていられることに、
私という人間の"命”に、そこまでしてあげる価値があるって、そんな風に思ってもいいのか、わからないよな。
そんなことしていいなんて、誰にも言われてこなかったもんな。
社会のルールや法律より、親や先生の言うことより、常識や道徳や善悪や倫理観より、自分の心を大事にしていいなんて、そんなことを言ってくれる人は、どこにもいなかったもんな。
許してはいけないものを許さなきゃ生きていけないなら、そんな人間は死んだらいいって思うよな。
『無価値感』って、こういうことなんだな。
自分の価値を自分で認めてあげられないって、こういうことなんだ。
"自分は楽になっていい”って自分で自分を許してあげられないままなら、何をしたって、どんなに頑張ってみたって、生きるのが楽になるわけなかった。
だけど、もういいかな。
こうしてこの記事を書いていて、生まれて初めて、"もういいかな”って思えた。
許しちゃいけない、許されないって思っていたのは、そうしないと、この社会の中で生きていけない、誰からも受け入れてもらえないと思っていたからだけど。
でも、もう背を向けてしまってもいいかな。そんな世界は。
誰にも受け入れられなくてもいいって思えたら、
これからは誰もいない"世界”にいこう、一人ぼっちになることを受け入れようって思えたら、
私以外の人間が存在しない場所でなら、私は私を許せるかもしれないって、初めて思った。
私は命を大事にできなかった。
たくさんの生き物を殺した。
愛せなかった。
でも、それでいいよ。
そんな私でもいいよ。
私は生きていてもいいよ。
ここにいていいよ。
自分を責めなくていいよ。最低だと思わなくていいよ。また同じことを繰り返すって怯えなくていいよ。自分が命に触れたらまた傷付けるかもしれないって思わなくていいよ。
子供を怖いって思わなくていいよ。生き物を怖いって思わなくていいよ。愛しいと思うものを抱きしめてもいいよ。手を伸ばして撫でてあげていいよ。
人を愛してもいいよ。人に好きって言ってもいいよ。
悲しかったって言っていいよ。辛かったって言っていいよ。たくさん泣いていいよ。たくさん笑っていいよ。
人から愛されていいよ。大好きな人に大好きって言ってもらっていいよ。望んでいいよ。ほしがっていいよ。
甘えていいよ。助けてもらっていいよ。ここにいたいって言っていいよ。誰かと一緒にいたいって願っていいよ。幸せになっていいよ。
他の誰かがあなたを責めるなら耳を塞いでいいよ。そんな相手からは逃げ出してもいいよ。自分をずるいって思わなくていいよ。受け入れてくれる人が絶対にいるって信じていていいよ。
社会のルールや法律より、親や先生の言うことより、常識や道徳や善悪や倫理観より、
そんなものなんかより、あなたのほうがずっと大事だよ、あなたが笑っていられることのほうが大事だよって、そう言ってくれる人がいるって信じていていいよ。
自分で自分のこと、そう思っていてあげていいよ。
あの子たちも私を許してくれてるって、天国でまた会えたらもう一度仲良くしてくれるって、そう思っててもいいよ。
だからね、
私が本当はずっと思っていたこと、ずっと自分にそう言ってあげたかったこと、
だけど、そんなことは許されないと思って、ずっとずっと我慢してきたことを、
今、この場で、思いっきり言ってみます。
私はどんなことがあっても、どんな時でも、本気で自分を許すって、
どんなことからも自分の味方をしてあげるんだって、そう覚悟したから、
その覚悟の証として、この場でそれを形にします。
あのね、
ばっっっっっっっっっっっっっっっっっかじゃないの!!!!!
世の中の奴らが勝手に決めた、『正しさ』だの『善悪』だの『倫理』だの『道徳』だの、本当に本当にぜ――――――――んぶくっだらない!!!!!
意味わっかんない!!!!!
なんで"そんなこと”で、私が責められなくちゃいけないんだっての!!!!!
なんで"そんなこと”で、私がこんなに自分を責めなくちゃいけないんだっての!!!!
私がどういう人間かなんて、あんたたちに勝手に決めつけられてたまるか!!!!!!
ずっと悩んだよ!! ずっと苦しんできたよ!!! いつだって私は精一杯やってたよ!!!!
上手くできなかったけど、
世間の人らが勝手に決めた、『大事にするとはこういうことだ』っていう型通りにはできなかったけど、
だけど私は、私なりにちゃんと、あの子たちのこと愛してたよ!!!!
大事にしてたよ!!!!!
一生懸命やったよ!!!!!
だから今でもこんなに悲しくて苦しくて辛いんだろが!!!!!
私だっていっぱい謝りたいよ!!! やり直したいよ!!!! ごめんねって言いたいよ!!!!
でも、できないから、私は私が生きていくために、私のことを許そうって決めた。
あの子たちも私を許してくれているはずだって、世界は私に優しいって、自分勝手に都合よくそう信じて生きていくって決めた。
辛いよ。
苦しいよ。
こんなことを言って、人から責められたらどうしようって、ものすごく怖いよ。
だけど、こうしないと私は生きていけないから、
辛くて辛くて、苦しすぎて、生きていけないから、
私が私を守るために、どれだけ、決死の覚悟でこれを言っているかって、それを、全く理解もしないような奴らに、
勝手に、結果だけ見て、表面だけで、私の気持ちなんて何も知らないような連中に、考えようともしてくれないような"他人”どもに、
そんな奴らに、『お前は命を大事にできない最低の人間だ』なんて、私を決めつけられてたまるかっての!!!!!!!
私にだって、自分を許す権利がある!!!!!
苦しまずに生きていく権利が絶対ある!!!!!
"罪悪感”なんてな、この世でもっともいらない感情だよマジで!!!!!
他人や社会から無理やりに押し付けられる、"他人軸”の最たるもんだよ!!!!
こんなものがあるから、こんなにもこの世界は怖くて安心できなくて、息苦しくて生きづらいんだろうが!!!!! どいつもこいつも自分で自分の首絞めて馬鹿か本当に!!!!!
今まで大人しく背負わされてきたけどもう捨ててやるからなそんなもん!!!!
『許し』のない世界なんて、自分で自分を許すことが許されない世界なんて、そんな最低で最悪で地獄みたいな世界、もう選ばないからな私は!!!!! パラレルワールド移行してやるからなこれからは!!!!!!!
ふざけんな!!!!! ば――――――――――――――か!!!!!
以上です。ご清聴ありがとうございました。
サポートありがとうございます!!幸せになります!!!!