「 踵をぐっと持ち上げて 」

「同情と羨望は同時に得ることはできない」
凄く好きな言葉だ。
見栄っ張りなのだろうか、傲慢なのだろうか、それでもいつでも私は「羨望」が欲しい。同情の何倍も。

私はいつも思う。
受け取る方ではなく、与える方でありたい、と。
感動させられる方ではなく、感動させる方。
憧れる方ではなく、憧れられる方。
勇気づけられる方ではなく、勇気づける方。
 
何か素敵な物事を受け取り手にするたびに、ときめく心と裏腹に、「私はまだ受け取る側なんだ」という事実に出会い、落ち込んでしまう自分がいる。

キラキラ可愛くて眩しいアイドル、
心に深く訴えてくる物語、
ハッと息をのむような絵画、
思わず手帳に残してしまう優しい言葉。
毎日毎日私は受け取ってばかり。

ああ、そちら側に行きたい。そんな気持ちがいつもある。
 
私以外の誰かができているのだから、私にだってできるだろう。静かに秘めたるそんな思いもある。だからこうやって信じて必死に言葉を綴っている。「受け取る」存在がいるかはわからないけど、その有無に関係なく一人孤独に与え続けている。残しておく。いつか誰かが受け取ってくれることを願って。
 
羨望、それは他者の眼差しであって、どんなに望んでも私の力ではどうしようもできないものだ。
そうしたら、過去の自分が、もしくは未来の自分が憧れる存在になれているかを問うていきたい。
自分の憧れる対象と重なるような選択を繰り返していく。それしかないのだと思う。

演じるように、背伸びするように。
最初はいつも使わない筋肉を使って筋肉痛になってしまうかもしれない。
孤独や痛みを感じるかもしれない。
でもきっと続けていれば、それが本来の自分なのか、はたまた、頑張って踏んばって背伸びして演じた自分なのかその二つは少しずつ曖昧になっていくのではないだろうか。
そうやって成長していくのではないだろうか。

「強いふりをすることと、本当に強いことにどれくらいの違いがあるでしょうか。それは自分で決めること。」

「理想の自分を演じるように背伸びしていてごらん。やがてそれが普通になっていくから。理想を普通にしてごらん。」
 
弱い自分もいる。苦手なこともある。
でも、強くありたいと願う自分もいる。苦手をどうにか手名付けて、その先に見える景色を見てみたいと静かに燃える自分もいる。
 
最近は少し自分の弱さをそっと労わるような選択をしてきたかもしれない。そのおかげで「苦手」は逃げてもいいということを知り、許すこともできるようになった。

でも、もう一度「演じる」をしてみたくなってきた。労わることできっとストレッチは十分だ。筋肉はしなやかだ。筋肉痛は軽く済みそうだ。怪我をしたらまた労わってあげたらいい。
踵をグンと上げるタイミングのような気がする。
労わってきたことで可動範囲は静かに広がっているんだ。
ほぐして鍛えて。
縮めて伸ばして。
私はそうやって生きていくのかもしれない。
2つとも確かな成長には必要なこと。欠かせないこと。

踵をグンと持ち上げて、ひとつ上の視界を楽しむ。

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