「思想が強い」という言葉の問題

 はじめに申し上げておくが、少なくとも2024年現在、この国は民主主義社会だ。しかし、そのことの意味を分かっていない人間が多すぎる。その例の一つが、タイトルで挙げた言葉だ。

「思想が強い」

 この言葉を耳にした機会は多くの人にあるのではないだろうか?今回私はこの言葉に対して、この「批判」のあり様には大いに問題があると指摘したい。

思想が強いという言葉はどのように使用されるのか?

 まず初めに、この言葉はどのような場所で使用されているのか、という例を見てみよう。おそらく、この国でこの言葉を使用する人間は、以下のようなエピソードに従って発言するものだろう。

AさんとBさんの会話。
Aさん:「このまえ○○のデモに行ってきたよ。で、××・・・」
Bさん:(適当に相槌を打つ)
・・・
数日後、別の会話。(BさんとCさん)
Bさん:「Aさんと話した?彼/彼女は思想強めの人でさぁ。こないだデモに行ってきたとか言って・・・」

言葉「思想が強い」の使用例。

 Aさんは何らかの意見を持って社会的な活動をしていて、Bさんはその意見or活動を好ましいと思っていない、あるいは、その意見を表明していることが押し付けがましいと思っている。今ではSNSではありとあらゆるところで見かけるフレーズではないだろうか?
 この言葉の問題点は二つある。

問題点その1:「思想が強い」ということそのものへの検討不足

 一つ目。「思想が強い」とはどういうことなのか?という検討が極めて雑であると言わざるを得ないということだ。
 どんな政治的主張の中身であれば、そして、どんな社会的活動をしていれば、「思想が強い」ことになるのだろうか?どこに(思想が)強いことと弱いことの境界線があるのだろうか?
 第一に「社会的な活動」を例に出そう。思想が強いこととされることの典型例をいくつか挙げる。
 例えば、デモ。民主主義社会においては、大衆に向けて意見表明をすることは非常に重要なことだ。デモに行くことが「思想が強い」のなら、民主主義社会は根幹から成り立たなくなる。
 特定の勢力への支持の呼びかけ。これだって、よく考えれば民主主義社会においては当然のはずだ。選挙はするのに、それに向けて何か活動をすること自体は当然ではないか?
 よく考えてほしい。これが、例えば、「○○さんを支持しろ。さもなくばお前を・・・」のような脅迫や明らかな自由意志の侵害、あるいは爆弾を設置した、と言った事件性などがあれば問題と言えるだろうが、支持を求められたり、口論になったりしても、その領域を踏み越えることさえしなければ、民主主義社会を動かしていくのに必要な「意見の交換」であるはずだ。あなたには気に入らなければ反論し、意思を変えない権利があるのだから。
 第二に、「政治的主張の中身」に着目しよう。例えば、もっとも物議をかもしそうな事例・・・「日本共産党の経済政策」を挙げてみよう。この経済政策は「思想が強い」と言えるだろうか?インターネット上での議論であれば、こういう反応が返ってくるだろう。「経済分野で"共産党"という名前の政党の出すものなんて極端で少数派に違いない。つまり思想が強いことになるだろう」
 しかし、現実はそう(極端な少数派の意見)ではない。以下のURLを引用させていただくが、政策パッケージとして提示された場合、最も支持されるのは共産党の経済政策なのだ。それでは、同サイトで記載されている、自民党の経済政策は共産党の制作より支持されていないように見えるから、共産党の経済政策より「思想が強い」と言えるだろうか?それもおかしな話だ。現に自民党は議席の大半を占める大型国政政党なのだから。

 では次に、明らかに問題のある意見を出してみよう。例えば、「○○皆殺し党」という党があって、その党が「特定の属性を持つ人間を排斥しろ、皆殺しにしろ」と叫んでいるのであればどうだろう。これは明らかに問題だ。だが、この意見を批判するときに、「思想が強い」という言葉を用いることが果たして適切と言えるだろうか?
「特定の属性を持つ人間を排斥しろ、皆殺しにしろ」
ということは、「思想が強い」から問題ではない。それが差別であり人権侵害であるから問題であるはずだ。
 この違いは非常に重要だ。「○○だから問題だ」ではなく、「思想が強い」と言った瞬間に、思考が完全に停止している。
「思想が強い」という「批判」は、「批判」ですらなく、極めて雑な思考停止のレッテル貼りなのだ。これは不当だと私は考える。そして、この不当さは、次に述べる問題点につながってゆくこととなる。

問題点その2:意見を持つことへの忌避感の育成

 二つ目の問題点は、意見を持ったり、表明したりすることに負のレッテルを貼るということそれ自体にある。
 そもそも誰が「思想が強い」と言われるのだろうか?そういう人間はどうやって生まれてくるのだろうか?
 特にマジョリティで何不自由なく過ごせている人間は、「意見」を持たなくてもほぼ不自由なく生きていける。だが、何かの不条理が自分に襲い掛かったとき、人は自分の「意見」を持たざるを得ない。
 そう、「意見」を持たざるをえない人間は、社会の不条理に大多数の人間より向き合っている、または、向き合わざるを得ない立場に追われている確率が高い。その「意見」は、社会の不条理、言い換えれば「破損個所」を示す信号であるはずなのに、こうした言葉が跋扈する環境では、それらが無視されてしまうのだ。
「思想が強い」という表現は、表現対象の「社会」からの切断、そして、周縁化だ。

「思想が強い」という言葉が作る未来

 私がこの表現を批判する理由、それは、批判や議論をせずに、「思想が強い」という言葉を選んでいると、何が起きるのか、ということが予見できるからだ。
「問題点その2」に述べた通り、社会において「意見」を持たざるを得ないのは、多くの場合社会の不条理に直面せざるをえなくなってしまった人間だ。「意見」を検討せずに「思想が強い」とそっぽを向くことを繰り返していれば、自分が「意見」を述べざるをえなくなった時に、発言の自由を奪われることになる。自分が社会の不条理に直面したときに、それを発信しようとした途端、相手に「思想が強い」と雑にレッテル貼り(問題点その1)され、そっぽを向かれ、距離を取られ、周縁化される。そこに検討と批判は一切ない。よって、自分の言葉は誰にも届かず、封殺される。
 既にお気づきの方もいらっしゃるかもしれないが、これはニーメラーの警句に近い状態だ。自分が意見を言う必要がある状態に追い込まれたとき、あるいは、意見を言う必要がある人間が発言するとき、「あなた思想が強いね」と封殺されてしまい、結果、何も言えなくなってしまう環境が整っていくのだ。NSDAPこそ登場しないが、大衆全体が自動的に言論封殺をしてゆく。そのような状態が果たして幸せと言えるだろうか?私はそうは思えないのだ。

代わりにどんな振る舞いをすればよいのだろう?

 では、代わりにどんな振る舞いをしろ、というのか?それに対する私の答えは単純だ。相手の主張を徹底的に吟味し、気に入らなければ反論することだ。何も複雑なことではない。何が気に入っていて何が気に入らないのか。そこを自分の中で検討して区別する。それをやらずに「思想が強い」と一方的にレッテル貼りをするのは、思考停止であり、無自覚な自己の特権性を振りかざす行いに他ならない。
 押しつけがましいのならそのことを非難すればよい。場にそぐわないというならそう批判すればよい。相手が思っていた通りにはならないと思うのなら、「私はそうは思わない」と言えばよい。そこで「思想が強い」という言葉を選ぶのをやめようと主張したい。

終わりに

 政治に対して何らかの意見を持ったり、行動したりするようになることを、何らかのカルトにはまったように見なす人間は多々いる。しかし、何らかの意見を持った人間が、その意見を示したときに必要なのは、その人間を「思想が強い」とレッテルを貼って周縁化することではなく、意見に対して吟味して、検討と批判をすることのはずだ。それをネグレクトし続けた先に、良い未来は待っていないと私は考える。というわけで・・・
Be political!

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