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見たことのない海に思いを馳せて〜【私のタイ文学】ラッタウット・ラープチャルーンサップ『ガイジン(Farangs)』〜

考えてみれば不思議なものだ。海が好きな自分は、タイに留学していたときでさえもほとんど海に足を運ばなかった。チェンマイという北の古都<みやこ>に住んでいたことが大きいけれども、プーケットもクラビも、サムイ島もサメット島も、僕は行ったことがない。

ただ、それでも僕はタイの海をありありとイメージできる。永遠に伸びているかのような白い砂浜を、永遠に繰り返すかのように波打つ水際を、永遠に続いているかのような水平線を、そしてその海を永遠かのように見つめている人々を。

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タイの海と聞くと、自分はあるタイ系アメリカ人作家による短編小説を思い出す。ラッタウット・ラープチャルーンサップの『観光』(原題:Rattawut Lapcharoensap, Sightseeing)に収録されている短編、「ガイジン(Farangs)」だ。


ペーパーバック版

タイのとある島に生まれた「ぼく」は、あるアメリカ人の娘リジーに恋をする。地元のモーテルを経営する母親は、「ぼく」に対して常々「ガイジンの娘とだけはヤるな」と忠告する。なぜなら母親はその両親の忠告を無視してアメリカの軍曹とヤり、残されたのは深い悲しみと息子の「ぼく」だけだったから。

ぼくはママに女の子と出会ったばかりだという。「これは愛かもしれない。本当の愛かもしれないよ、ママ。ロミオとジュリエットみたいな愛さ」 (中略)  
 それはホルモンのせいだよ、とママは言う。ため息をついて言う。「もうやめな、やめな。ばかじゃないのかい。あたしはそんなばかな子に育てた覚えはないよ。泊まり客とやったのかい?客とはやらないほうが身のためなんだよ。もしやったなら、客とやったと言うなら、あの豚を殺さなくちゃならない。そう約束しただろう」

文庫版 pp.11-12

「軍曹」は「ぼく」とその母親をカリフォルニアに呼ぶと約束したっきり、軍曹は帰ってこなかった。

「ぼく」には友人の仔豚がいる。名前はクリント・イーストウッド。「ぼく」がまだ小さかかった頃、「軍曹」が誕生日プレゼントとして渡してくれた仔豚だった。リジーと砂浜で出会ったとき、「ぼく」はクリント・イーストウッドが引き潮の時のぬかるみのような湿った砂が大好きなことを告げる。そして、クリント・イーストウッドが泳げることを告げる。

クリント・イーストウッドは波打ち際で転げ回り、引いていく波を追いかけ、寄せてくる波から逃げ惑っていた。波打ち際で波に合わせて走り回るのはクリント・イーストウッドの朝の日課で、波に打たれて泡だらけになるたびに嬉しそうに鼻を鳴らした。 「溺れているんじゃありませんよ。泳いでいるんです」とぼくは言った。

文庫版 pp.14-15

彼氏の浮気を目撃したばかりのリジーを、「ぼく」は二人で象に乗りに連れて行く。高台から海や母親のモーテルを見下ろしながら、「ぼく」はリジーをものにする。しかしその夜、「ぼく」はリジーとともにいる、彼氏であり島の典型的なアメリカ人観光客であるハンターとレストランで出くわす。

「ぼく」はリジー…いや、「ミス・エリザベス」に別れを告げ、クリント・イーストウッドとともにレストランを後にする。友人スラチャイとともに海辺のマンゴーの木に登る。二人で話していると、下に待たせていたはずのクリント・イーストウッドが、ハンターらガイジンたちの方へ走っていく。それを見つけたガイジンたちは…。最後のひと段落をどうしても引用したいのだが、ネタバレになってしまうので控えておこう。

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「ガイジン(Farangs)」は『観光』の一番最初に収録されている短編だ。この英題にあるFarangsとは、タイ語でいわゆる「西欧人」を指す ฝรั่ง /faràŋ/ から来ていると思われる。この ฝรั่ง という言葉は、音から推測すると「フランス」にあたる ฝรั่งเศส /faràŋsèet/ から来ているのだと思うのだが、どちらかというと否定的な意味合いを帯びている言葉だ。まさに日本語の「ガイジン」と言う言葉に含まれるニュアンスだ。

島にくる外国人の観光客は、現地のタイ人にとって必ずしもいい印象を与えているとは限らない。事実、「ぼく」の視点から語られるこの物語には、観光地に住む人々が抱くガイジンに対するイメージが反映されている。

ぼくたちは暦をこんなふうに分けている。六月はドイツ人−サッカー・シューズ、でかいTシャツ、分厚い舌–がやってきて、唾を吐き捨てるように喋る。七月はイタリア人、フランス人、イギリス人、アメリカ人がやってくる。イタリア人はスパゲティに似たパッタイがお好きだ。明るい布地、サングラス、革のサンダルがお気に入り。フランス人はふくよかな娘、ランブータン、ディスコ・ミュージック、胸をはだけるのがお好みだ。イギリス人は青白い顔をなんとか見栄えよくしようとここに来て、ハシシが大好物。アメリカ人はいちばんデブでいちばんケチ。(中略)最悪の酒飲みでもある。

文庫版 p.10

冒頭で一通り「ガイジン」、とりわけアメリカ人を酷評しつつも、「ぼく」は自分の中に、軍曹から受け継いだアメリカンな一部を確かに感じているのだ。友人スラチャイに、「ぼく」がなぜアメリカ娘に弱いのかと言われた際、彼はこうこぼしている。

タイ娘に好かれてなんかいないと思う。顔つきが違うせいなんだ。鼻がもう少し平べったければいいのに。

文庫版 p.34

「アメリカ」の名残、淡い恋心、ガイジン、それら全てが「ぼく」の中で交差・交錯している。そんな「ぼく」に寄り添い続けるのが常に海だった。この物語の中では、「ぼく」の出来事に寄り添う形で、島の海のなまざまな表情が描写されている。リジーと出会った海、母親と軍曹が寝そべっていた海、リジーと交わったときの海、レストランで恋敵に遭遇したときの海、マンゴーの木から見える閃光を放つ海…。海の向こうに、軍曹のいるカリフォルニアがある。かつて恋に落ちた娘たちのいるアメリカがある。でも、その間には永遠に続くかのような海がある。

自分にとってタイの海とは、どこかもわからない島の、架空の少年が見つめている永遠の海なのだ。

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この本との出会いは、まだタイ語の日常的な会話も覚束ない大学1年生のときだった。タイ人である今の指導教員にお薦めされた、タイ系アメリカ人による短編集で、原作は英語で書かれている。タイ社会の中でも傍に追いやられていて、普段は注目されないような人々に焦点を当てた7つの短編が収められている。

タイのことを知っている人間からすると、どの話もタイの一断片をこれでもかというほど生々しく描き出している。僕の薦めでこの本を手に取ってみたあるタイの友人は、「あまりに “タイ” すぎて、もうこれ以上読みたくない」とこぼしていた。なるほど、タイ語版が存在しないわけだ。

僕が思うにこの本はタイ語よりも英語の方を読む方が、その良さがわかるのではないとも感じる。現在形と過去形を使い分けることによって、作中で語られている出来事から読み手を近づけたり遠ざけたりと、距離を自由自在に変えている。文法範疇に、いわゆる「時制テンス(過去形・現在形・未来形)」が存在しないタイ語よりも、動詞の「時制テンス」と同じ活用で物事との独特の距離感を表現する英語の方が、文体の深みを味わえる。

では英語の原作では現在形と過去形のどちらの方が使われているのかというと、現在形の方が多い印象がある。進行形なり助動詞なりを使いながら、目の前の出来事を丁寧に描写している。タイ語は時制テンスが存在しない分、ある特定の出来事の移り変わりに焦点を置くアスペクトと呼ばれる表現が発達している。原作の英語を読んでいても、タイ語を読んでいるかのような感覚を覚えるのは、タイ語らしいアスペクト表現が豊富だからかもしれない。

原作の英語版や翻訳された日本語版にはいくつかの異なるカバーがある。個人的には、早川epi文庫のカバーが一番好きだ。濃淡のある青い海を、仔豚のクリント・イーストウッドが泳いでいる。

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