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足りない部分ばかりに目がついて疲れ果ててしまう代わりにー人は究極の加点主義でつくられたということ

大学で教える私にとって夏休みは長い休みとなる嬉しいシーズン😊です。

7月最後の週に春学期の授業と期末試験は終わります。学生たちは「これで夏休みだ!」と開放感溢れてそれぞれの夏休みに元気そうに出かけていきます。実は教員には、試験やレポートの採点と同時に一人一人に学期の最終成績をつける作業が残っています。

この「採点」という作業ですが、当初これがとてもとても苦痛でした。

教え始めたばかりの時は、250人近くの成績をつけ終わると肩がガチガチに凝って、ぐったりと疲れたことを覚えています。

あまりにもこの作業が苦痛で、疲れさせるものだったので、「こんなにも疲れさせるものは一体なんだろう???」と考えざるを得ませんでした。

どうして、採点作業、成績評価がこんなにも「苦痛」で、これほどまで「疲れされる」体験だったのか?

まずは、目を酷使する点があります。

今は全てのレポートは、オンラインプラットフォームを通して提出してもらうので、250人近くのレポートをパソコン上で読むという作業が生じます。目に大きな負担がかかるので、実際に目が非常に疲れます。

そういう身体的な疲れもあります。

しかし、もっと別の本質的な理由があったのです。

それは、、、

採点や評価というものに対して、人は、いとも簡単に「減点主義」になり易く、批判的なマインドが起こされるということがあるからです。

これは、大学で教え始めたばかりの頃、初めて学期末の採点・評価をした時の体験です。

レポートを読みながら、「うーん、ここは論理展開が甘いな」、「結論が一方的に断言されている割には根拠が十分に示されていないよね」、「ここは言葉が足りない」と、足りない部分ばかりが目について、読むほどに「クリティカルなマインド」がスイッチオンされていく自分に気づきました。口に出してもいないのに、あたかも心の中が批判的な見方で満ちているような嫌ーな気分になりました。

中には、素晴らしい視点や洞察深い観察が示されているものがあったにもかかわらず、全部を読み終わった時には、ぐったりと疲れていました。

学生の成績を評価する立場にある者にとって、レポートならば、その論理展開や根拠を確認して、適切な評価を行うのは必要なことです。しかし、必要以上に、「足りない部分ばかりが目についてしまう」マインドにはまっている自分に気づきました。

この体験があまりに疲労と苦痛をもたらすものだったので、自分の健康のために、課題の設定自体を変えることにしました。

次回からは、応用や適用、実践を取り入れて、それによる新たな発見と洞察が評価されるように課題に設定し直しました。応用と適用、実践が評価されることによって、「それぞれの着眼点」や「オリジナリティー」が引き出され、さらには、実践からもたらされた「より深い理解」や「洞察」が導かれ易く設定し直しました。これによって、「各自の努力」や「学生のよくできているところ」がより可視化され、そこに着目して、評価できるようになりました。応用や適用、実践例が含まれるようになったことで、抽象的な議論や一般論で終わらなくなった為、論理展開でおきがちな不足も防がれ、かつ、補われることになりました。

採点作業がより楽しいものになってきました。

ある時から、「ああ、みんなよく頑張ったなあ」とレポートを読みながら、感動を覚える作業に変わっていきました。

もう一つは、英語でスピーチをしてもらう授業での経験です。構成がし易いように型をあわせて提示し、その人にしかない体験談にフォーカスを当てるような課題設定にしました。

すると、どうでしょう!

みんな輝いてスピーチをするのです。教室でこちらが講義をするだけだとわからなかった一人一人のオリジナリティーや体験、そこから学んだこと、その人にしかない体験から生み出される力強い言葉と励ましのメッセージが溢れていました。

「この子にはこんなところがあるんだ」と、一人一人が持つ体験とそれについて堂々と英語でスピーチをする彼らの力強さと輝きに驚きつつ、教室の後ろの方に座りながら、思わず心が打たれて涙がポロリと落ちたことさえありました。

このような体験をすると、自然と「加点主義」になります。

採点も成績評価も、それぞれの良かったところがすぐに思い出されて、それまでとはまったく違う体験となっていきました。

こうした体験を何学期か重ねて改めて実感したのは、「減点主義」は本来の人の価値と人と人との健全な関係性に関する摂理に反するものではないか?ということでした。私たちが、減点主義的考えで人に接するとき、いのちがすり減るような感じを覚えます。他方、加点主義的考えで人と接すると、新たな発見があったり、相手に対して自然と互いに敬意を覚えるようになって、お互いの関係が心地よくなるのです。

聖書には、「神は人を神に似せてつくった」という箇所があります。

「さあ、人を造ろう。 われわれのかたちとして、われわれに似せて、、」(創世記1章26節)

”Let us make man in our image, after our likeness."
(Genesis 1:26)

「相手のよいところを見るようにしましょう」、とは昔から言われていることですが、それが実際に効果的なのは、人間が作られた本来の価値を互いに認め合う態度だからなのかな?ーそんなことを今回思いました。

人は神に似せてつくられたのだとしたら、人の価値は私たち人間が勝手に思うよりも、認識しているよりも、はるかはるかに高い!ということをこの箇所は示しています。文字通りそう思えなくても、私たちが自分で自分のことを認めることができずに、悩んでいたとしても🙆‍♀️

あまりにも多くの人たちが他人と自分を比較しては、自分の価値を認められなくて傷ついています。

ちょっとでもいいから減点主義ではなく自分を加点主義で見てあげてください。きっとそれが神さまが人を見る目なのです。


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